栽培から、産直、加工まで。時代を読みつつ、地元の特産「夏みかん」を守る
2019年02月14日
甘み、酸味、さわやかな香りが特長の「夏みかん」は、明治時代に山口県萩市で栽培がはじまった。大正時代から続くカンキツ農家である(有)たけなかの代表取締役竹中一男さんは、その三代目。地元の夏みかんをとりまとめて市場に送る産地問屋をしていた父親のあとを継いで、産地直売から夏みかんの加工まで、45年もの歳月をかけて道を切り開いてきた。
事業継承をきっかけに産地直送にチャレンジ
竹中さんとともに夏みかんの圃場に向かった。江戸や幕末の史跡が並ぶ路地を抜けてほど近く、竹中さんが管理する夏みかんの畑が広がっていた。「自社農園は1ha。40年ほど前から、高齢で栽培をやめたところなど50軒。200~300t収穫できる畑を預かっています」。
萩で夏みかんの栽培を普及したのは、幕末期の士族だった小幡高政(1817‐1906)と言われている。明治維新後に職を失った士族の救済のために、苗木を配り、夏みかんの栽培を勧めた。「高政は、果実の販売だけでなく、苗木を和歌山や愛媛などにも売って商いをしたんです。自分の地域だけよくなればいい、自分だけが儲かればいいという考えはなかった」と竹中さんは言う。
右 :竹中さんが維持管理する夏みかん畑にて
家業を継いだのは、23歳の頃。商業高校を出て大阪の繊維問屋に就職したあとUターンした。大阪では服地の配達や営業を担当していた。百貨店の仕立てコーナーに勤務していたこともあり、お得意様にダイレクトメールを出してお客さんを呼び、服の受注につなげていたという。
故郷へ戻り、父親の産地問屋と夏みかん栽培を受け継いだのは高度経済成長期、観光地として萩の知名度が上がった頃だった。父親が昭和45年に開業した問屋は、県内をはじめ、東北や北九州などの地方卸売市場に夏みかんを出荷していた。しかし市場は相場が変動し、いくらいいものを作っても自分で値段がつけられない。
「当時はまだ、宅配便はなく、個人の荷物は国鉄の小荷物輸送でした。その後ヤマト運輸が、個人配送、翌日配送で世に出てきた。運送業が許認可事業だった時代です」。
左 :加工を待つ夏みかん
右 :松陰神社境内に、昭和45年から土産物屋を構えている。ここでも主力商品は夏みかん
竹中さんは、萩にはまだ販路を広げていなかったヤマト運輸が、山口県下関に営業所を設け、長門市仙崎の蒲鉾を配送していることをつきとめ、「夏みかんのシーズンだけでも萩に足をのばして」と交渉した。父親から受け継いだ取引先名簿をもとにダイレクトメールを送り、いち早く夏みかんの翌日配送をはじめた。繊維問屋時代の経験を活かしたのだ。蒲鉾や地域の特産品と夏みかんの詰め合わせセットも好評を得た。
「いいものがあれば田舎にいても販路があるんだという手応えがありました。お客さんから『運送屋さんを教えて』という問い合わせも多かった。田舎から都会へものを送りたいという個人のニーズが高まってきた時代でした。ダイレクトメールの効果も絶大で、3割は帰ってきました。荷物が追跡できる、というヤマトさんの仕組みもよかった。『いつ頃着きますよ』と言えるので、問い合わせにも納得してもらえ、クレームにならなかったんです」。
パートさんの年間雇用のために加工に着手。皮、実、果汁を使い切る
「農園では収穫期の繁忙期に、みかんちぎりのパートさんを雇っていました。50代~60代が多く、とてもよく働いてくれるから、なんとか1年間の雇用を確保してあげたい。それは地域の雇用の確保にもなる。けれど、市場の値段は下降するばかりで、いよいよ産地問屋は経営の危機でした。ハウスみかんや、酸味のないカンキツ類がいろいろ出てきて、酸っぱい夏みかんが売れなくなっていた」。
すると、夏みかんの生ゼリーを作って大ヒットしている関西の菓子メーカーから、原材料の注文があった。生ゼリーは夏みかんをくりぬいて中にゼリーを詰めたもので、クール宅配便の登場とともに土産物として売れているという。しかしゼリーの原料は、一定の規格サイズのみ。竹中さんは、今こそ30代からあたためてきた加工を実現するときとばかりに、この菓子メーカーに「競合しない製品をつくるので、うちでも、規格外の小さな夏みかんでゼリーをつくりたい」と申し出、了承を得て、製造をはじめた。これが今や、たけなかの看板商品でもある「柑乃雫」(かんのしずく)である。竹中さんが41歳の時だった。
左 :看板商品の生ゼリー「柑乃雫」。さわやかな夏みかんの風味がすばらしい
右 :「夏蜜柑菓子」は、蜜柑の皮の砂糖漬け
それまで萩で夏みかんの加工品といえば、酸っぱい果汁を活かしたポン酢製造と、夏みかんの丸漬け(砂糖漬けに羊羹を詰めたもの)だった。「夏みかんは、皮、果汁、果肉とそれぞれ使い道があるが、お菓子屋さんは皮だけで中身は要らない。果汁を加工する人は、皮は捨てる。種は苦味の材料として必要な人がいる。私はみかん屋なので、すべてが揃うのが強み。皮を加工した残りの果汁で、ジュースやゼリーを作れば、原価は2分の1になる」。
専門家の指導も受けながら商品を増やし、現在は菓子製造、清涼飲料、缶詰瓶詰めの加工品を作っている。生ゼリーの「柑乃雫」は、大手百貨店でも販売し、カタログにも載っている。受託加工を始め、萩にいても多様なビジネスができることがわかってきた。在来種の香酸カンキツ、「長門ゆずきち」の加工では、県の助成も受けてジャムや砂糖菓子を開発した。
「青い果実しか値がつかなかったゆずきちを、熟れて黄色くなると軟らかく、種が少なくなることに注目して加工しました。今ではJAや普及所も『黄化したゆずきちも売れるよ』と指導をしはじめています」。
左 :早摘みの長門ゆずきちの幼果をシロップ漬けにした長門ゆずきち丸
中 :「長門ゆずきちスライス」青い果実しか値がつかなかった長門ゆずきちを、色づいても美味しく食べられるように開発
右 :「パート・ド・フリュイ」は、山口県産の材料を使用した ゼリー菓子
人と組むこと、身の丈でやること
竹中さんに「加工場のラインを見せてもらえますか」とたずねると、「加工場は見せられるけど、『ライン』はないですよ」と、機械倉庫に案内してくれた。
「うちは清涼飲料水でも、1日1000本~2000本単位、身の丈の規模の加工です。けれど、さまざまな委託加工を受け、オーダーに応じた業務用製品も製造しています。炭酸飲料とキャンディの他は何でもできる。乾燥機、裏漉し機、搾汁器、スライサー、ダイスカッター、ミンチ機など、いろいろな機械を作る物に応じて出して使用するんです」。
機械にはすべてキャスターを付けており、出し入れが可能。時代の流れで売れるもの変わるから、太いラインはいらないという。
右 :加工場は、こじんまりしつつも、効率的で清潔な空間。訪問時は、生ゼリー柑の雫を製造中だった
「あそこにいけば、みかんならほとんど加工できる」といわれるようになりたい。けど、「なんでもひとりでやるんじゃなくて、人と組まないとね」と言う。
「その方が知恵もでるし、販路も広げやすい。関わるすべての人の単価が、5円でも10円でも上がるものにしないと。そして、自分がやめても技術はあとに残るように」。
それが萩の夏みかん栽培で、先人が伝えてきたことだと竹中さんは語った。(ライター 森千鶴子 平成29年7月7日取材)
●月刊「技術と普及」平成29年10月号(全国農業改良普及支援協会発行)から転載