人と牛とのつながりを軸にした酪農の6次産業化
2015年07月06日
東京都の酪農家は島しょを除いて90戸あり、市街地に隣接する立地条件を活かした、多様な経営形態がみられる。その中で、八王子市の磯沼ミルクファームは、代表の磯沼正徳さん(62)のオープンファーム構想のもと、加工、教育などを通して6次産業化を展開中である。
オーストラリアでふくらんだ酪農の可能性
副都心新宿から1時間、京王高尾線山田駅が磯沼ミルクファームの最寄り駅である。雑木林と草に覆われた傾斜地には、数頭の牛が放牧中だ。坂道を下ると風景は一変し、牛舎のまわりは住宅が軒を連ねている。
右 :斜面に設けられた放牧地で、牛たちは運動不足を補う
経営面積(牛舎と付属施設)は約6000㎡で、周囲に80aの牧草地、1haの農地がある。飼養頭数は乳牛と育成牛で約90頭の規模。平成6年にヨーグルト工房を開設し、低温殺菌牛乳他の乳製品は委託製造している。3名の雇用者、研修生とボランティアで牧場運営を行っている。
牛舎はフリーバーン。牛は自由に歩き回り、好みの場所でリラックスしている。人と牛との距離は驚くほど近い。道路のすぐ脇の柵に近づき、通りがかる人をみつめる牛もいる。牧場には一般の人も気軽に立ち寄って、牛舎を見学したり写真を撮ったり、レストコーナーでは同ミルクファームの乳製品を味わうこともできる。
オープンファームシステムの導入は、磯沼さんが青年時代に体験した海外酪農研修がきっかけだ。八王子市が主催する研修派遣に参加し、オーストラリア各地の酪農家に約3週間滞在した。酪農先進地の実態にふれた27歳の磯沼さんに強い印象を残したのは、地域に根づいている酪農文化だった。「牧場は牛を飼い、乳製品をつくる生産の場であるだけでなく、地域の人たちが集まって楽しむ場にもなっている。牧場のあり方、酪農がこれからめざす形態として考えるようになりました」。
健康な牛を育てる~牛舎に漂うコーヒーの香り
磯沼さんが就農した昭和40年代後半には、すでに牛乳の生産調整が行われるようになっていた。多摩地区の酪農家有志は、足腰の強い酪農経営をめざして自給飼料、乳質改良等に熱心に取り組んだ。
良質な牛乳、おいしい乳製品の基本になるのは牛の健康、適切な飼養環境である。磯沼さんは『家畜福祉5つの自由』にのっとり、飼料と水の選択にも十分に配慮した健康的な環境を実現している。カロリーやタンパク質を控える干し草を採食させ、地下50mからくみ上げた井戸水をミネラル分豊富な波照間島の珊瑚を透過させてから与えている。
磯沼ミルクファームの牛は、開放型牛舎で飼養されている。通気性はよいが、その分、住宅地の真ん中という立地ゆえに臭気対策が必須である。頻繁な掃除、乾燥、炭脱臭剤等のさまざまな対策をとってきたが、効果が高かったのは、入手しにくくなっていたオガクズの代替品として20年前に採用した、コーヒーとココアの皮や殻だ。食品由来で安全性が高く、何より牛が嫌がらなかった。
コーヒー工場から定期的に入手できるようにかけあい、利用量を増やした。現在では、1頭あたり1日約20kgを使用している。牛舎にはかすかにコーヒーの香りが漂う。
左上 :コーヒーとココアの皮や殻を敷料にした後、発酵させて堆肥にする
右下 :人気の「完熟牛糞コーヒー堆肥牛之助」
使用した後は、完熟コーヒー堆肥にして活用する。「ココア、コーヒーはチッソ、リン酸、カリが豊富。水分調整と温度管理で良い堆肥にできます。使いやすいと好評で、都内の農家や個人のリピーターも多いですよ」と磯沼さん。磯沼牧場の定番商品『完熟牛糞コーヒー堆肥牛之助』として市販もされている。
軌道に乗った付加価値の高い乳製品加工
原材料だけつくって提供するのではなく、自家生産に取り組みたい。アイスクリームやチーズ、バターなどの加工品を試作し、磯沼さんは牧場で製造する加工品としてヨーグルトを選んだ。
「ヨーグルトで加工を始めた事例は少なく、一番売りにくいものだ、と言われました」と磯沼さんは当時を振り返る。少量ロット製造が可能なプラントを探し、自治体の補助金と営農資金の融資で工房を建設した。牛1頭1日分の牛乳だけでつくるヨーグルトなど、牧場だから製造できる商品を打ち出した。
右 :プレミアムヨーグルト。ふたを開けると、ヨーグルトの上層部分にはクリームヨーグルトが浮いている
生産ロットが少ないゆえに、商品価格は高くなる。「作って終わりではいけない」と販売先探しに努めた。デパートの催事に出品したところ、おいしさとともに「牧場で一番おいしいミルクをだす1頭の1日分のミルクでつくる」というこだわりが注目された。メディア等で取り上げられ、話題を集めた。道の駅の農産物直売所のほかに、高級百貨店との取引もはじまった。
少量生産のプラントに委託して低温殺菌牛乳、アイスクリーム、バームクーヘン等のアイテムをふやした。磯沼ファームブランドのラインナップが広がった数年前からは、HPを開設してネット販売も行っている。平成24年には、八王子駅の駅ビルに直営店をオープンさせた。
磯沼ミルクファームは平成24年に6次産業化認定されたが、認定の手続き等で数字を出してあらためて、「これから商品をどう売っていくかが課題と感じた」と磯沼さんは話す。ここ数年、乳酸菌の働きが注目され、ヨーグルトは健康志向の消費者にアピールする商品アイテムになっている。多様な機能をもつヨーグルトが開発、市販されている中で、牧場オリジナルのブランド力をどう打ち出していくか。広汎な購買層とつながる試みが続けられている。
左 :乳製品ラインナップ。牛乳、ヨーグルト、プリン、チーズ、ワッフル、バームクーヘン等、磯沼ミルクファームの加工品の数々。牧場の売店をはじめ、JR八王子駅ビルの売店やネットショップで購入できる
酪農現場で教育や交流を進める
消費地に近い立地は、不利も多いが利点も少なくない。イベント等では交通の便のよさが生きる。共同購入グループとの交流や、日曜日の「ちちしぼり体験教室」等を息長く継続している。これまで実施したオプションの体験メニューはバラエティ豊かで、ハムづくり、トラクター体験、ワインとチーズの集いも行われている。子どもたちが生きものとふれあう、「食といのちの学び」を支援する、(一社)日本中央酪農会議の酪農教育ファームにも認定されている。
左上 :牧場風景
右下 :牧場を訪れた母子が加工品を賞味していた
磯沼さんは小学生高学年から青年を対象に、「カウボーイ・カウガールスクール」を開設している。牛の飼養管理繁殖・分娩から搾乳、乳製品づくり、飼料作物の栽培、人間と牛の歴史的関わりに至るまでを1年間かけて伝える講座だ。酪農への知識と理解を深めるとともに、つながりを通して生まれる日本型酪農文化の醸成も期待する。
今後の課題は、磯沼ミルクファーム加工品の販路を広げること。こだわりのオリジナル商品だからこそ、品質や由来のPRが重要で、酪農文化の一般普及とも重なる。
「現在はホルスタイン、ジャージー、ブラウンスイスの3種の乳牛の牛乳と加工品を商品にしています。将来は世界に7種ある乳牛をすべて飼ってみたい」と磯沼さん。磯沼ミルクファームの可能性はますます広がっていく。(君成田智子 平成26年2月26日取材)
●月刊「技術と普及」平成26年6月号(全国農業改良普及支援協会発行)から転載
磯沼ミルクファーム ホームページ
東京都八王子市小比企町1625
TEL:042-637-6086
FAX:042-637-6186