強さとおいしさが魅力の九条ねぎ。次代へ伝えていきたい
2012年02月09日
旬を迎えた九条ねぎが収穫を待つばかりの清水洋人さん(30)の畑は、古都京都を西から南へ流れる桂川の河川敷にある。土が肥え、良質の九条ねぎがとれる畑のすぐ近くで、頭上を橋脚が横切っている。新幹線、東海道線が東西に走る、JR京都駅から南東へ5km足らずという、なかなかない場所だ。
九条ねぎは京都市内の九条地区が原産であったことから「九条ねぎ」と呼ばれる、京都を代表する伝統野菜のひとつ。洋人さんは父・偉佐雄さん、母・敬子さんとの家族経営により、通年栽培の九条ねぎ約90aを中心に、秋冬ホウレンソウ(30a)、夏場のエダマメ(約29a)、春秋小カブ(12a)、自家用米(8.5a)を露地で作り、個人で市場出荷している。
左上 :桂川西岸に広がる九条ねぎの畑。西へ向かう新幹線が陸橋を渡っている
右下 :9月に定植した苗。先を切り落としてさらに成長させる
いつのまにか就農、恵まれた条件に気づいた
大学は経済学部の出身。卒業後すぐにアメリカで計2年、農業研修と語学習得に励んだ。前半はワシントン州の田舎のりんご園が研修先に指定され、後半は正反対の環境を希望して、ロサンジェルス近郊の農場で花の生産から販売までを経験した。人が行き交う都会はにぎやかで市場にも近く、学ぶべきことがたくさんあった。
アメリカに未練もあったが、帰国。京都に戻った翌日には農作業が割り当てられ、その日から農業の毎日が始まった。まだ農業をするともしないとも決めていなかった時だ。「本腰を入れ始めたのは、帰国の半年後くらいかな。農業は面白いと思うようになったんです」。そして「市場(京都青果合同(株))が近いし、土がよい、水もよい。おまけに京ブランドの野菜でもある。こんなに条件がそろっていて、農業をやらない手はない」と気づいたそうだ。25歳のときだった。
旬の九条ねぎは二度植えして太く、おいしくなる
九条ねぎは、青々とした葉の部分を好む関西の食べ方に合った、葉ねぎの代表格である。軟白部を好んで食べる関東とは違い、土寄せは高くても10cm程度。葉の部分に商品価値がある。圃場は街なかにもあるが、河川敷とは土質が別もので、出来具合が河川敷産のねぎには及ばないという。
左上 :定植したばかりのねぎ
右下 :春定植にそなえて育苗中
ねぎの旬は冬。1年で一番寒い時期に出荷される九条ねぎは、「二度植え」して苗を太らせたものだ。二度植えとは字の通り、夏場に収穫できるまでに成長したネギをひいて(収穫して)葉を切り落とし、干し苗(切り苗)にする。これをしばらく乾燥させ、再び秋口に定植し、11~12月に収穫・出荷する。冬場は、苗がしっかりしていないとネギを太らせることができない。そのための知恵であり、九条ねぎ独特の栽培法である。
二度植えができる強い作物だが、ねぎを作った後は土が弱る。連作障害を避けるためもあり、ねぎの後作にはエダマメやホウレンソウを栽培している。栽培する上で土が一番重要ということが、作り続けるうちにわかってきたという。
また、年々夏場の気温が上がり、盛夏の7~9月は露地栽培がむつかしくなっている。畑は40度を超える暑さとなり、病気、病害のため良いものが作れない。品種によって強さが違うので、試しているところだそうだ。
産地の将来と自分の農業を考える
洋人さんの目下の悩みは、同世代の農業者との情報交換ができないこと。30歳代の専業農家は、地域に洋人さんを含めてたったの2名。20歳代、40歳代は皆無で50歳代も少なく、主力は父親世代以上の60~80歳代である。おまけに皆、個人出荷なので、情報交換をしにくい。京都市農業青年研究会に所属し、市内の若手専業農家との交流の機会はあるが、作目も出荷・販売形態もバラバラなので、得られる情報が限られてしまう。
また、10年後に地域農業や市場がどうなっているのか、どうなっていくのかも気がかりだ。不安だが、チャンスでもあると捉えている。市街化調整地域にある農地は立地上、離農者が出たとしても拡大はむつかしいが、桂川の河川敷にある圃場は生産緑地のため、借りることができるのではないか。そう期待している。川べりの農地は土がよいので、「借りることができたら一年一作で、贅沢にねぎを作ってみたい」と洋人さん。
左上 :住宅や工場、商業施設に囲まれたねぎ畑。隣の駐車場は数年前までねぎ畑だった
右下 :米の後作でネギとホウレンソウを栽培している。手前の溝は、れっきとした農業用水路
左上 :露地栽培のホウレンソウ
右下 :父・偉佐雄さんと九条ねぎ
現状維持で農業をしていき、いずれは奥さんにも農作業に加わってもらえそうだ。「地味な仕事ですが、両親が作ってくれた今の基盤を、子供の世代にも選択肢のひとつとして残していきたいですね。継続第一で、地道にねぎを作っていきたい。味ののった九条ねぎをぜひ食べてください」と話してくれた。(水越園子 平成24年1月17日取材)