きょうも田畑でムシ話【119】
2023年02月08日
フユシャク――寒さ逆手に種族繁栄
冬の田畑はいかにもさびしい。生きているのか眠っているのか、生き物の気配が感じられない。
「冬の詩人」高村光太郎はうたった。「冬が来た」の第2連で。
きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
光太郎はこのあとで「僕に来い、僕に来い」と冬をきっぱりと受け入れたが、虫たちはいったい、どこに逃げたのか。
雪が降り積もれば話は変わるが、そうでなければ、目の間に広がるのは、いかにも土気色の荒涼とした風景だ。
そういうと、なるほどと思いがちだが、どっこい田畑は生きている。息をしている。生き物だって、眠ったり、人知れずひそかに活動したりしているのだ。
人間はなかなか気づけないが、冬の土を構成するものたちが生きているのは間違いない。
右 :冬の田畑はさびしい。生き物の気配が感じられないが、実はじっと寒さに耐えているものが多い
しかし、動く生き物の姿が少ないのもまた確かだ。冷えた空気の中でガアガアと騒ぐカラスはいる。尾をピッピと上げ下げして、モズが木の枝にとまっている。スズメは群れて枯れ草につかまり、チュンチュ、チュッチュと歓談する。ところが虫は、慎み深い。
田畑のまわりの雑木林では、樹皮の下や葉の裏で、寒い冬に耐えている。カマキリの卵やチョウのさなぎのように、成虫とは異なる姿で春を待つ虫も少なくない。どれもこれも地味である。
この寒い季節。空に舞う虫の姿を見るのはさすがに難しい。
いや、そんな虫はいないだろう。
という状況の中で現れるから、フユシャクの特殊性が際立つ。
フユシャク――。
この虫を知らないと、どんな姿をしたものなのかわからない。
そもそも虫の名前であるとか、蛾の名前であるなんてことは想像できまい。簡単に言えばフユシャクは、冬に活動するシャクガという蛾のグループを指す呼び名だ。
漢字にしたら「冬尺」。
この「尺」は、現代では滅多に使わなくなった尺貫法の長さ単位のひとつだ。
1尺をメートル法に置き換えると約30.3cm。ヤードポンド法だと約1フィートになるのは偶然なのか気になってしかたがないが、それはともかく、「冬尺」の「尺」はその尺に由来する。
そして「尺」はシャクトリムシ(尺取虫)の「尺」でもあるのだが、シャクトリムシはむろん正式な虫の名前ではない。
いわゆる、あだ名だ。蛾の幼虫で、長い体を持て余すように、よっこらせと大儀そうにからだを曲げたり伸ばしたりしながら前に進む。
そのさまを昔の人は尺を取る、つまり長さを測る人間の指に見立てたのだ。
ひとさし指と親指を使い、その幅を広げたり縮めたりして物の長さを測る。それを奇妙なからだの長い芋虫にあてはめた。
なかなかのネーミングセンスではある。
左 :樹皮そっくりの模様で擬態を決め込んでいるフユシャク。ウスバフユシャクだろうか
「しかしさあ、どうして尺につなげたのだろう。シャクトリムシの大きさからしたら、寸の方がよっぽど近いのになあ」
そんな話を友人としたことがある。
「たしかに一理ある」
「だろ。一寸法師は背の高さからして、そのままのイメージだ。だったらシャクトリムシだって、素直に考えれば寸取虫になっていいのに」
「そういえばかぐや姫もたしか、一寸法師と同じくらいの身長だよな。豆助、指太郎なんてのもあったし......」
どうでもいい話ほど長くなる。
1寸は約3.03cmだから、「寸」の方がシャクトリムシの実際の長さに近い。1尺にもなる巨大なイモムシがうごめいていたら、ツチノコに間違えられる。
もともとの1寸は、親指の先と中指の先までの長さおよそ18cmだったそうだ。さらにいえば、「尺」は「長さ」というくらいの意味合いで使うことも多い。現代でも芸能界などで「尺をとる」「尺が長い・短い」とか使われるから、なるほどとうなずける。
右 :シャクガの幼虫は、シャクトリムシ。体の中央部にあしがないので、尺をとるような動き方になる。これはチャバネフユエダシャクだろう
それはともかく、シャクトリムシの場合には、単なる長さや大きさではなく、その動きを表現したものだろう。知っているからそんなものだと思うかもしれないが、初めて見たらびっくりする進み方だ。先入観なしに見れば、なかなか面白い。
シャクトリムシがちょっと不思議な体の使い方をするのは、体のつくりに関係がある。あしの仕組みに、シャクトリムシならではの特殊性があるのだ。
昆虫だから、成虫の蛾になれば、胸に6本のあしがあるのはわかる。ところが幼虫時代にも胸にはちゃんと6本のあし(胸脚)があり、体の中間部はがらんと空いている。そして、お尻の近くに、腹脚・尾脚と呼ばれるあしが複数本、存在する。
移動するときには後ろの方のあしを胸の方にぐいっと引き寄せて使うため、体が湾曲し、結果的に尺を取る体勢になる。
まちがえる人はいないと思うが、「冬尺」は雪の深さを測るものさしではないのである。
ともあれ、フユシャクは冬が好きだ。
というか、冬に現れるからフユシャクだ。晩秋から早春にかけて出現し、野山の広い空間を占有する。
光太郎は冬に立ち向かって自らの「餌食」にすると宣言するが、フユシャクはもっと積極的に冬を利用する。いってみれば、虫の世界の戦略家だ。天敵に襲われにくい季節を選んだのだと、一般にはいわれる。
左 :ひっそりとした冬の公園。ここでもフユシャクを見ることがある。フユシャクは寒さ知らずで活動する
右 :かろうじて樹皮との色の違いがあった。シロフフユエダシャクだろうか
鳥やカエル、トカゲなど、蛾を襲う生き物はいろいろと存在する。それらが全部、「冬は寒いから、土にもぐろう、よそに行こう」とはならないまでも、冬眠するものも多いから、確率的には天敵に遭遇する機会が減る。したがって、多くの生き物が敬遠する冬を利用しようと考えるのは、理にかなっている。
敵がいなければ、空を飛ぶ能力は少しぐらい劣っていてもかまわない。
それでフユシャクは、酔っ払いのオジサンのようにふらふらと舞う。遠出もしない。
虫たちにしてみれば、いかにして子孫を残し、種を維持するのかということが最大の任務だ。
メスは性フェロモンを流してオスを呼び寄せ、オスはそのにおいをキャッチする。極論すれば、それさえできれば、あとはどうでもいいのだ。それでメスのはねは退化し、卵を満杯にした丸っこい体形になる。
フユシャクの性フェモロンは人間には感じとれないが、冬枯れの季節なら、障害になるものも減るだろうから、オスに受信してもらえる確率も高まり、効率がいい。といっても実際には数メートルの範囲でないと気づかれないそうだから、性フェロモンを流す方も受ける方も必死だろう。
左 :クロスジフユエダシャク。このフユシャクはまだ青い葉が残るころに見られる。酔っ払い運転のように、ふらふらと飛ぶ
右 :フユシャクの雌は、はねが退化したものが多い。なんとなく、短足のアメンボに似ている
まあしかし、へそ曲がりの蛾であるフユシャクは、友達もいない代わりに敵も少ない寒さの冬に空を舞う。
シャクガ科は蛾の中でもヤガ科に次ぐ大きなグループで、日本では900種ほど知られるそうだ。
ところがフユシャクは、そのうちの約30種とされる。寒空に舞うと知っても、実際に見る機会はうんと少ない。
おもな活動時間は、日没から2時間ぐらいだとされている。学生時代には冬のさなかの深夜にも出かけて探したが、それができたのは同行する同好の士がいたからであり、いまはたまたま見るだけだ。
それでもフユシャクは、確かにいる。そしてオスなら弱々しく見えても確実に空を飛ぶ。
冬の散歩道に生える草の上をひらひらと舞う姿を見ることがあるし、雑木林に入れば木々の間をふらふらっと飛んでいるところを目撃する。
トイレに駆け込めば、タイルにとまっているところに出会う。わが家のまわりはどんどん宅地化が進むが、玄関灯に誘われてやってくるフユシャクがいる。
間近で見れば、はねの一部がふさふさした感じの毛で覆われ、なんとなく暖かそうだ。えり巻きのようなものを持つものもいる。
左 :公衆トイレで出会ったフユシャク。いくらか暖かい場所だが、こんなところでのんびりしていていいのだろうか
右 :フユシャクを前から見た。なんとも高級そうな衣装をまとっている。どれくらい暖かいか、尋ねたくなる
冬に出現するフユシャクの成虫は、「天敵がいないからゆっくり食事をしようぜ」などと考えない。雌雄ともに口吻(くち)が退化しているから、食事にも無銭飲食にも縁がない。何も食べず何も飲まず、交尾をして卵を産んで、おしまいだ。
春には幼虫の時代があり、その際には少しばかり、農作物や樹木をつまみ食いする。だが、夏には早々と土にもぐってさなぎになる。だからまあ、大目にみてやりたい。
冬になっても逃げない虫がいると知っていたら、光太郎の詩は変わっていたのかなあ。
フユシャクを見るとなぜか、そんなことを思う。

たにもと ゆうじ
プチ生物研究家・作家。 週末になると田畑や雑木林の周辺に出没し、てのひらサイズのムシたちとの対話を試みている。主な著書に『週末ナチュラリストのすすめ』『ご近所のムシがおもしろい!』など。自由研究もどきの飼育・観察をもとにした、児童向け作品も多い。