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ぐるり農政【192】

2023年3月22日

「よくなかった」諫早干拓

ジャーナリスト 村田 泰夫


 「よかったの一言」。長崎県の諫早干拓事業をめぐる訴訟で、漁業者側の上告をしりぞけた最高裁の決定に、野村哲郎農水相は、こう語ったそうである。ほんとうに「よかった」のだろうか。私は「よくなかった」と思う。


murata_colum192_1.jpg 佐賀県内などの漁業者は、諫早干拓による潮受け堤防の設置で有明海の環境が悪化し、ノリの品質が悪くなったりタイラギなどの魚介類が獲れなくなったりしたとして、堤防の排水門の開門を求めていた。こうした漁業者たちの訴訟は、いったんは民主党政権下で確定していた。ところが、干拓を強行した国らが確定判決の無効化を求めて訴訟し、最高裁は3月1日付で「開門せず」を決定した。

 野村農相は有明海の再生について「立場にかかわらず、早期の実現を願う思いは同じだ」と語り、開門の賛成派である漁業者と反対派である干拓地への入植農業者との対立を望んでいるわけではなさそうだ。さらに、農水相は「賛成派と反対派で話し合いを進めてほしい」とも言っている。それはよい。

 しかしながら、20年余りの間、漁獲量の不振で開門を求めてきた漁業者らと、干拓地への塩害を懸念して開門に反対する入植農業者らとの対立を修復するのは容易ではない。


 改めて、諫早干拓は何だったのか考えてみたい。諫早干拓事業は有明海の諫早湾の湾口の全長7kmを潮受け堤防で閉め切り、約670haの農地を造成する国の公共事業だ。戦後の食料不足対策から計画され、当初は水田を造成するつもりだった。ところが、コメが余るようになってから畑地に変更、さらに防災対策の意味合いも付加され、1989年に着工し2008年に完成した。

 総工費は2533億円にのぼり、1ha当たりの事業費は4.8億円となる。こんなに高い農地はほかにない。コメが余って減反が強化された段階で、干拓事業は中止されるべきだった。もし、農地がどうしてもほしいのなら、耕作放棄地を開墾したほうがずっと安くすんで効率的だった。一度スタートしたら、無駄だとわかっても途中で止まらない公共事業の典型的な事例となった。


murata_colum192_2.jpg そもそも、農水省には湿地の価値を評価する知見がないのではないか。山から流れ出る川の淡水と塩気を含む海水とが混ざり合う汽水域は、一見、ヘドロに見えるが、実は極めて大きな価値と機能を持っている。とくに干潟は、役に立たないドロ地ではなく、魚介類の生息や幼魚の成育水域であり、渡り鳥のえさ場である。しかも、私たち人間には水質を浄化する大きな機能を持っている。

 環境省の試算によると、わが国の湿地や干潟の持つ経済的価値は、年間1兆5000億円にのぼるそうだ。ノリや魚介類などの漁獲量だけでなく、水質浄化機能や潮干狩りなどレジャーの場を提供しているからで、それらを金銭に換算すると巨額になる。

 「無駄な公共事業」だということだけではない。湿地や干潟は、豊富な魚介類の生息する「豊饒の海」であるだけでなく、貴重な野鳥が飛来する自然豊かな「生きもののゆりかご」でもある。わが国で諫早干拓事業が着工するころ、欧米諸国では豊かな生態系を守る湿地を保護する意識が高まる時代を迎えていた。とくに欧米では、従来方式の干拓事業はおこなわれなくなっていた。経済的に無駄なうえ、海外では自然環境を守るうえでむしろ有害な事業だと認識されていたのに、農水省は事業を強行したのである。


murata_colum192_3.jpg しかしながら、農水省はその後、環境保護を求める世論に配慮しなければならなかったのであろう。島根県と鳥取県にまたがる中海・宍道湖の干拓・淡水化事業を2002年に中止した。大型公共事業の中止としては画期的な出来事であった。

 1963年に着工した中海・宍道湖干拓・淡水化事業は、国が食料の増産をめざして、中海と宍道湖を日本海から締め切り、淡水化するとともに干拓し、1540haの農地を造成しようとするものだった。一部の干拓は実施されたが、環境保護の世論の高まりを受け、1988年に淡水化事業を延期し、2002年に農水省が事業の中止を決めた。

 中海・宍道湖の干拓・淡水化事業が中止になって20年余り。2005年には湿地の自然を守るラムサール条約の登録地に指定され、地域ぐるみで環境保全活動が続けられている。一時激減したシジミ漁も持ち直してきて、汽水域の環境が守られているおかげで、「シジミの漁獲量日本一」の座を維持し続けている。

 諫早干拓事業は、すでに干拓事業が完工しているので、干拓地をいまさら海に戻すことは現実的ではない。しかし、締め切り堤防を開き、諫早湾に海水と淡水の混ざり合う汽水域を再現すれば、入植農業者の生活を脅かすことなく、諫早湾に豊かな湿地の生態系を復活させることだって不可能ではない。

 そのための実証実験として、締め切り堤防の水門の開門は試みる価値のあることだったのではないか。その道が閉ざされたことは、残念というほかない。(2023年3月20日)

むらた やすお

朝日新聞記者として経済政策や農業問題を担当後、論説委員、編集委員。定年退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学客員教授(農学部食料環境政策学科)を歴任。現在は「農」と「食」と「環境」問題に取り組むジャーナリスト。

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