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2022年4月22日
愚かな「諫早干拓」
ジャーナリスト 村田 泰夫
長崎県の諫早湾干拓をめぐる福岡高等裁判所の判決(2022年3月25日)にあぜんとした。湾を閉ざしていた堤防の排水門を開けるように国に命じた2010年の確定判決を「効力がない」ものとする判決を言い渡したからである。理由は「事情が変わったから」だという。こんなことがあっていいのか、と思った。確定判決は何だったのか。
干潟など湿地の価値は見直され、大規模干拓の愚かさは広く認識されるようになった。先進諸国ではもちろん、わが国でも、いまや干拓事業はおこなわれなくなった。時代錯誤の判決というほかない。諫早干拓のことを知らない人も増えてきたと思うので、なぜ諫早干拓が愚かな事業で、確定判決が妥当であったのか、振り返ってみよう。
国営諫早湾干拓事業は、諫早湾を堤防で閉め切り、その内側に大規模な農地を造成するのが目的だった。戦後の食料不足が補うため水田をつくるのが当初の計画だった。しかし、米が余るようになり、減反が農政の課題になったので、干拓事業の必要性がなくなった。ところが、事業主体の農水省は、目的を「水田の造成」ではなく、「農地(畑)の造成」に変え、さらに洪水など「防災対策」を加え干拓事業を継続した。
諫早湾はムツゴロウなどの魚のほか、二枚貝タイラギなど高級な魚貝類の宝庫で、「豊饒の海」といわれていた。当初から干拓事業に強い疑問があった。もちろん、地元の漁業者は強く反対していた。しかし、農水省は当初計画を縮小したものの1989年に着工した。工事では諫早湾を全長7kmの潮受け堤防で閉め切る必要があり、1997年に鉄板を海中に垂直に落とす作業をした。そのありさまが首をはねる「ギロチン」に似ていて、テレビで全国放映されたことから、事業への反発がいっそう強まった。それでも工事は継続され、総事業費2533億円で2008年に完了した。
諫早干拓は、漁業者や研究者の懸念した通り、有明海の漁業に多大な悪影響を与えた。有明海の漁獲量は1979年の13万6000tをピークに減り続けた。有明海のシンボルであるノリの漁獲量が低迷し続けたうえ、潜水漁でとる高級二枚貝のタイラギはほぼゼロに。
陸から流れる川の水と海水が混じる合う汽水域が果たしてきた水質浄化の機能や、「生きもののゆりかご」であった湿地が失われたからだ。漁業被害をもたらす赤潮の発生頻度も増えている。
このため、有明海の漁業者たちは、国を相手に、堤防の排水門を開門すべきだとする訴訟を起こした。開門することで漁業被害が回復するはずだからだ。この訴訟に2010年、福岡高裁は「国は開門すべきだ」とする判決を出した。これに当時の民主党政権が上告せず、判決は確定した。首相であった菅直人氏は、諫早干拓事業について「無駄な公共事業の典型だ」と語っている。
公共事業は、事業に投じられる事業費より、事業で得られる便益が上回らなければ実施しないのが原則である。諫早干拓事業は当初の事業費は1350億円で、費用対効果は1.03だった。便益の方が事業費を上回っていた。ところがその後事業費がふくらんだことから、費用対効果は0.81に減ってしまった。
それだけではない。環境省が試算した干潟の経済的価値によると、諫早湾が干拓されなかったならば、その干潟相当面積から年間約360億円に相当する価値が生じると、22年3月26日の朝日新聞は報じている。干拓で生まれた約670haの農地で生産される農産物の年間生産額は約30億円である。干拓しないほうが経済価値は大きかったことになる。
そもそも、干拓に対する世界の考え方は、すでに50年ほど前から変わってきている。湿地の保護を目的としたラムサール条約が制定されたのが1971年だ。80年以降、定期的に締約国会議が開かれている。途上国の中には、海岸のマングローブ林をつぶしてエビの養殖場にしたり干拓したりする開発がいまなお見られるが、先進諸国では干拓の対象となる海岸の湿地の価値を見直し、干拓事業はおこなわれなくなっている。
わが国の湿地や干潟がもつ経済的価値はいくらになるのか、環境省の試算によると、年間1兆5000億円にのぼる。ノリや貝類などの食料の供給だけでなく、水質浄化機能や潮干狩りなどレジャーの場の提供など幅広い価値があり、それらを金銭に換算したところ、多額にのぼることがわかった。
わが国の干潟は戦後、干拓や埋め立てで約4割が失われたといわれる。東京湾では干潟の約9割が埋め立てられてしまった。干潟の価値が認識されていなかったからであろう。いまは干潟の価値を知る人が増えた。一見、ヘドロに見える干潟は、役に立たない空間ではない。カニや貝類の生息場所であり、魚の産卵や幼魚の生育の場であり、渡り鳥のえさ場や休息の場である。さらに水質を浄化する機能が大きく、私たち人間に多大な貢献をしている。
一度決めたことは、その後、誤りがわかっても軌道修正しないのが公共事業といわれる。それを追認するこのたびの福岡高裁の判断は残念に思う。確定判決をくつがえすことで、司法への信頼が失われかねないことも憂える。(2022年4月18日)
朝日新聞記者として経済政策や農業問題を担当後、論説委員、編集委員。定年退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学客員教授(農学部食料環境政策学科)を歴任。現在は「農」と「食」と「環境」問題に取り組むジャーナリスト。