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2021年6月22日
SDGsは大衆のアヘンか
ジャーナリスト 村田 泰夫
「SDGsウォッシュ」という言葉をご存知だろうか。SDGsは、2015年に国連が採択した「持続可能な開発目標」で、17のゴールと169のターゲットを掲げた。地球温暖化など地球の持続可能性が脅かされている時代に、解決すべき課題を列挙し、30年までに達成しようと世界各国に呼びかけたものだ。「ウォッシュ」というのは、whitewash(ホワイトウォッシュ=ごまかし、見せかけ)を意味する。だから「SDGsウォッシュ」とは、SDGsに取り組んでいると見せかけて、実際にはやっていないことをいう。
SDGsウォッシュの典型ではないかと私が思うのが、IR(統合型リゾート)汚職の収賄と証人買収の罪に問われているA衆議院議員だ。「無罪」を主張する記者会見で、胸につけているのが議員バッジと、あの丸くてカラフルなSDGsバッジである。判決が出ていないので、問われている罪についてはコメントしないが、カジノ誘致推進、選択的夫婦別姓反対の議員が、「公正な社会をつくる」とか「ジェンダー平等を実現する」をうたうSDGsの考え方とは相いれないのではないか? と思ってしまう。
つまり、崇高なSDGsの理想をけがしてしまっているのではないか。そう思ってしまうのである。汚職の被告人ほどではなくても、地球温暖化の元凶の一つとされる石炭火力発電所の建設に巨額の融資をしているメガバンクの首脳が、胸にSDGsバッジをつけていると、「そのバッジは免罪符にならないぞ」と言いたくなってしまう。
SDGsウォッシュ批判とはニュアンスが異なるが、ベストセラーになっている『人新世の「資本論」』(集英社新書)で、筆者の斎藤幸平氏(大阪市立大准教授)は、書き出し部分で「SDGsは大衆のアヘンである」と断じている。
斎藤氏はこんな趣旨のことを言う──温暖化対策として、エコバックを買ったりマイボトルを持ち歩いたりしても、その善意は有害でさえある。温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされている大胆なアクションを起こさなくなってしまうからだ。現実の危機から目を背けることを許す「免罪符」として機能する消費行動は、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーンウォッシュに取り込まれてしまう。
ではどうしたらいいのだろう。斎藤氏の対応策はこうだ。「人類が環境危機を乗り切り、持続可能で公正な社会を実現する唯一の選択肢は、脱成長コミュニズムである。資本主義によって解体されてしまった「コモン」(生産手段の共有、管理)を再建する脱成長コミュニズムの方が、より人間的で、潤沢な暮らしを可能にしてくれるはずだ」。
産業革命以降の資本主義の発展が、人々の暮らしを豊かにした半面、今日の地球上の危機を招いていることは間違いない。だが、その解決策を資本主義以前の共同体主義に求めることに違和感を抱く人も多いのではないか。
アヘンと言われようとも、環境配慮の経済活動や消費行動は無駄ではないし、むしろ必要ではないかと私は思っている。たしかに、企業の行動の中にはSDGsウォッシュやグリーンウォッシュではないかと見られる「やったふり」の環境配慮事業もある。でも、利潤優先、金もうけ主義優先と言われるグローバル資本主義の下でも、社会の改革は進められている。
その一つが「ESG投資」である。ESGとは、環境(エンバイロメント)、社会(ソーシャル)、企業統治(ガバナンス)の頭文字をとった言葉である。企業の長期的な成長や持続性は、この3つの観点から企業活動を見ていく必要があるという考えだ。株式投資や投融資などを判断する際に、この3つの要素を重視する動きが世界的に広がっている。
有害な排煙や排水対策をすることはコスト増になるとして、公害を垂れ流す企業が、いまや存続できなくなっているように、温暖化ガスを出したり、職場でセクハラや人権対策をおろそかにしたり、企業活動の情報開示をきちんとしなかったりする企業は、いまや生き残れなくなってきている。金もうけを考える投資家にとっても、ESGにきちんと向き合わない企業の株式は買えないのである。
SDGsウォッシュ企業は、社会から批判を受けるだけでなく、投資家からも見放され、存続できなくなる時代がやってきている。SDGsウォッシュ企業は、いずれ社会から消えてなくなるだろう。私たち一般の消費者も、企業がSDGsウォッシュであるかどうか、しっかり見極めなければならない。地球環境を壊したり、働く労働者をないがしろにしたり、社会責任に向き合わない企業は、淘汰されなければならない。
もちろん、私たちの日々の生活の行動様式も、変容が求められている。エコバックを買ったりマイボトルを持参したりすることも大切なことで、意味のないことだと私は思わない。もちろんそれだけで地球環境が維持されるわけでないことは、いうまでもない。
でも、世の中が大きく変化している兆しを肌で感じる。たとえば、「所有」が普通だった自家用車が「共有」形態が一般的になるなど、さまざまな分野でシェアリング社会の萌芽が見られる。まさに、私たちの経済社会は分岐点に立たされているのである。(2021年6月21日)
朝日新聞記者として経済政策や農業問題を担当後、論説委員、編集委員。定年退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学客員教授(農学部食料環境政策学科)を歴任。現在は「農」と「食」と「環境」問題に取り組むジャーナリスト。