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2019年5月24日
トゥキディデスの罠
ジャーナリスト 村田 泰夫
舌をかみそうな言葉が、新聞や雑誌に出るようになってきた。「トゥキディデスの罠」。今年1月、米中貿易戦争をテーマにした講演会で、私は初めて知った。私の教養のなさを棚に上げるわけではないが、この言葉を以前から知っていた人は少ないのではないか。現在の世界情勢の本質を突いている言葉なので、知っておいた方がいいと思った。
トゥキディデスの罠とは、古代ギリシャ、アテネの歴史家、トゥキディデスが言い出したそうだ。軍事大国だったスパルタに、経済大国として、のし上がってきたアテネが覇権を求め、ついには戦争に至った。このことから、既成の覇権国家と台頭した新興国家とが、当初はお互い望まないのに、結局は直接的な抗争(戦争)に発展していくありさまをいう。
おわかりであろう。世界一の経済・軍事大国である米国と、経済面でも軍事面でもめきめきと力をつけてきた中国とが、貿易をめぐって争っている現在の米中貿易戦争を最も的確に表現する言葉なのである。
かつて、18世紀に英国がスペインから覇権を奪った時、20世紀に米国が英国から覇権を奪った時もトゥキディデスの罠が働いた。現在の世界は、旧・覇権国である米国に対し、新・覇権国である中国が経済的にも軍事的にも攻勢に出て、守勢に立たされた米国が覇権を奪われてなるものかと新興・中国に反撃している様相なのである。
トランプ政権の言動は、これまでの私たちの常識を覆すものだ。一方的につぶやくツイッターで独断専行的な政策を次々と打ち上げる。その表現も口汚く野卑だ。米中貿易戦争も、トランプ大統領のツイッターで幕が開けた。「中国はわが国の労働者を欺き、知的財産を盗んだ」。中国との貿易で大幅な赤字なのが許せないという。さらに中国が、自国に進出する海外企業に先端技術の移転を義務付けたり、先端技術や商標権などの知的財産を盗んだりしていると怒る。
トランプ大統領の夢は「米国を再び偉大な国に」である。"Make America Great Again"は、大統領選のスローガンでもあった。彼によれば、中国が安い鉄鋼製品などを輸出するから米国の産業はつぶれ、労働者は失業してしまった。諸悪の根源は安い製品を輸出する中国であり、中国との貿易赤字を解消することで、米国を再び偉大な国に復活させられると信じているのだ。
一方「中国の夢」は、習近平国家主席によれば「中華民族の復興こそが、われわれの最も偉大な夢だ」という。もっと具体的に言うと、「中国の夢」は3つある。2019年5月15日の朝日新聞に、習近平主席のブレーンである劉明福・中国国防大学教授が語っている。
「一つ目が『興国の夢』。中華人民共和国の建国100周年の2049年までに、経済や科学技術などの総合国力で米国を超え、中華民族の偉大な復興を成しとげる。二つ目が『強軍の夢』で、世界最強の米軍を上回る一流の軍隊をつくること。そして最後が『統一の夢』で、(台湾問題に取り組み)国家統一の完成です」
現在は世界一の経済力を誇り、世界最強の軍事力を持つ米国だが、新興経済国である中国に激しく追い上げられている。「中華民族の偉大な復興」を掲げて、いけいけどんどんの中国に対し、「世界一の偉大な国」を守ろうとする米国が反撃に出ている。これが米中貿易戦争の深層だと知れば、米中間の争いは貿易の関税問題にとどまるのではなく、トゥキディデスの罠に発展する覇権争いであることがわかるであろう。
そう考えると、鄧小平氏は本当に賢明な政治家だったと改めて思う。鄧小平時代の1990年代、中国の外交・安保政策の基本は「韜光養晦」にあった。「とうこうようかい」と読み、「才能を隠し、内に力を貯める」という意味である。爪を隠して力を蓄えることで、対外的な摩擦を避けながら国力を充実させる戦略である。「興国の夢」を掲げて、大国とぶつかり合う習近平路線の覇権主義とは異なる。
かつて、日本も習近平主席と同じ誤りに陥る時代があった。1980年代後半のバブル景気に沸いた時代である。1989年、米国繁栄の象徴であるニューヨークのロックフェラー・センターを日本の不動産会社が2200億円で買収、計算上は「東京23区の地価で米国全土を購入できる」といって、バブル景気に酔っていた時代であった。
日本円の評価も上がり、「円の国際化」が当然視され、日本中がバブル経済に沸いていた当時、大蔵大臣だった宮沢喜一氏に取材した時のことを思い出した。日本円が国際金融取引の基軸通貨として米ドルと同じように使われるようになれば、日本企業は為替リスクから逃れられるだけでなく、日本という国が世界の経済大国として認められたことを意味する。当時の経済界は「円の国際化」を求める声が圧倒的だった。
経済記者だった私も「円の国際化」の早期実現を期待していたが、記者会見の席だったか、宮沢氏がこんな趣旨のことを言った記憶がある。「自然と円が国際化するのならともかく、力づくで勝ち取ろうとするものではありません」。今から思うと、宮沢氏の戦術は「韜光養晦」だったのであろう。(2019年5月24日)
朝日新聞記者として経済政策や農業問題を担当後、論説委員、編集委員。定年退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学客員教授(農学部食料環境政策学科)を歴任。現在は「農」と「食」と「環境」問題に取り組むジャーナリスト。