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2011年5月17日
「全村避難」迫られる福島県飯舘村
ジャーナリスト 村田 泰夫
東京電力福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故で、「全村避難」を迫られている村がある。原発から30km圏外にありながら、風向きの影響で高レベルの放射性物質が検出された福島県飯舘村である。「村民の健康、命を考えれば、苦渋の決断をせざるを得ない」として、村は5月中旬から福島県内の公営住宅や旅館などに、約1700世帯、6200人にのぼる全村民を避難させることにした。純農村地域である飯舘村の全村避難は、農家に「村を棄てる」ことを迫るようなものであり、悩みは深い。
飯舘村は阿武隈山系北部の開けた高原地帯にあり、「日本で最も美しい村」連合に加盟している、自然豊かな農山村である。明治時代までは馬産地だったが、その後に和牛が導入され、いまでは「飯舘牛」というブランド肉の産地として知られている。4月末、飯舘牛の繁殖農家で村会議員でもある菅野義人さん(59歳)を訪ね、全村避難を迫られる畜産農家の心情を聞いた。
右 :5月の連休のころは、桃源郷のような美しい飯舘村
3月11日の大地震の数日後、福島第一原発で相次いで起きた水素爆発で高濃度の放射性物質が大気中に放出され、その時の風向きの関係で、原子炉の北西に位置する飯舘村などに放射性物質が降下してしまった。短期間なら健康に問題のないレベルらしいが、1年間住み続けた場合、緊急時被ばくの国際的な基準値である積算放射線量20mSv(ミリシーベルト)を超える恐れがある。こうした積算放射線量の高い地域について、政府は4月11日、福島第一原発から20km圏外であっても避難してもらう「計画的避難区域」に定めた。飯舘村の全域がその中に入ったのである。
「村民の健康と命を守る」という原則に異存のある農家は一人もいない。しかし、菅野義人さんは言う。「暮らしを守らなければ、命も守れない」。農家にとって、暮らしの糧は農地であり家畜である。田んぼや畑、牛は暮らしを立てていくうえで、絶対に必要な生産手段である。「農地や牛を棄て、どうやって生活していけというのか」
放射線の線量が高いから避難しろと政府はいう。人間が被ばくする危険があるうえ、牛に食べさせる牧草や稲わらが放射性物質で汚染されているなら、安心して牛を飼うこともできない。だから、この地区の畜産農家は、一時的に移らないといけないかなと思う。一時的移転を拒否しているわけではない。でも、どこに移れというのか。菅野義人さんは、和牛の繁殖用の母牛17頭と子牛10頭を飼っている。繁殖農家にとって、お産をする母牛や子牛の世話をするために、どうしても牛舎が必要である。一定の広さの放牧地があって牛舎のある「あいている農場」を見つけることはできるのだろうか。極めて難しい。
政府からは、県外を含めていくつかの候補地が示された。長野県とか新潟県とか。都会のサラリーマンがアパートを引っ越すのと違う。できれば集落ぐるみで、あるいは仲間の畜産農家といっしょに移転したい。仮に、県外に条件のいい空き牧場がみつかったとしても、ばらばらになったら、村の再興ができなくなるのではないか。そんな心配がよぎる。村内の畜産農家のうち、酪農家は移転先でも原乳を出荷できる見通しが立たないので、肉牛として処分したところもある。和牛の繁殖農家の中にも、先の見通しが立たないので牛を売ったところもある。しかし、菅野義人さんは、何としても「飯舘牛」ブランドを、子や孫の世代のためにも残したいと思っている。「せめて、優秀な母牛だけでも残して、後の世代につなげたい」
左 :飯舘牛と地域コミュニティに愛着を抱く菅野義人さん
飯舘村で育てられた子牛は、これまで米沢牛や飛騨牛、以前は松坂牛として肥育されてきた。「日本一の和牛を育てている」という誇りが、飯舘村の繁殖農家にはある。菅野義人さんには夢が膨らんでいた。酪農大を卒業した長男(33歳)が、栃木県内の農場勤めを辞めて後を継いでくれた。昨年秋に結婚し、第1子が近く生まれる。長男は、飼育する牛の頭数を増やすだけでなく、老廃牛の肉を食肉に加工、販売する計画も進めていた。その矢先の福島原発事故である。
菅野義人さんの心配は、自分の家のことではない。飯舘村という素晴らしい地域コミュニティを、どうしたら守ることができるかである。飯舘村は「までい」という方言を村の理念としている。「真手」を語源とする方言だそうで、「心をこめて」とか「支え合って」という意味だ。ほかの農山村もそうであろうが、飯舘村には地域の人たちがお互いに支え合って生きていく連帯感が強い。全村避難を迫られる非常事態に遭遇して、先祖代々培われてきた地域コミュニティへの連帯感を失わずにすむ方法はないか、菅野義人さんは悩んでいる。
農地や山があり牛などの家畜がいて、集落の仲間みんなで助け合って農作業をして暮らしてきた。自分だけよくなろうなんて考える人は、いなかった。まわりの人たちもよくならなければ、自分の幸せもない。競争よりも共生。地域への連帯感や忠誠心は、集落ぐるみで助け合う共同作業に参加しないと成り立たない農業という生業の性格や、時代を超えて連綿と続くコミュニティへの帰属意識から派生している。
飯舘村は、経済的には決して豊かな村ではない。県内の市町村でも、住民の所得金額は下の方である。それでも、村民は豊かに暮らしてきた。都会で暮らせない人でも、飯舘村に帰ってくれば暮らしていける。地域のみんなが支え合うから。
だから、菅野義人さんは、「村を棄てる」こと、つまり「自分たちが帰属してきたコミュニティを棄てる」ことにつながりかねない「全村避難」は、何としてでも避けたいと思ってきた。飯舘村の中でも、線量の低い地域もある。線量の高い地域からの避難はやむを得ないとしても、線量の低い村内の地域に一時的に移転するなら、その後の村の復興に展望が開ける。だが、村は政府の方針に逆らうことはできなかった。次善の策として、せめて「村に帰れる」手だてを、いまから考えておかなければと思っている。いつかまた、飯舘村で農業を営み暮らしを立てていく希望をつなぎたいのである。
右 :放射能汚染の状況を調べるため、いつも「線量計」を持ち歩く
それには、東電福島第一原子力発電所の放射能汚染事故が収束しなければ、一歩も前に歩み出せない。収束することを前提に、飯舘村の農地がどれほど汚染されているのか、きっちり調べる。汚染の程度によって異なるだろうが、どのような対策をとったら、この地で再び農業を始めることができるのか。汚染された表土をはいで、きれいな土を客土したらいいのか。セシウムなどの放射性物質を吸収する作物があって、旧ロシアのチェルノブイリ原発事故で汚染された農地で実験されているというが、本当に有効なら飯舘村でも試みることはできないか。
全村避難を回避して、村内の線量の少ない地域に避難するか、あるいは全村避難がやむを得ないとしても、近隣の避難先からこの飯舘村に通ってきて、いつかまた子や孫たちが農業を続けられるように、その条件を整えていてやりたい。なぜなら、「までい」の地域を支えてきたのは、生業である農業であったからである。それが、いまの菅野義人さんらの切なる願いである。 (2011年5月13日)
朝日新聞記者として経済政策や農業問題を担当後、論説委員、編集委員。定年退職後、農林漁業金融公庫理事、明治大学客員教授(農学部食料環境政策学科)を歴任。現在は「農」と「食」と「環境」問題に取り組むジャーナリスト。