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農業でうまくいく人いかない人【2】

2020年5月 1日

農業は時代の大きな転換期にある  

農業生産法人グリンリーフ(株)、(株)野菜くらぶ 代表取締役 澤浦彰治   


 農業法人が変貌した平成
 農業を大きな時の流れの中で見た時に、「今」何を行なう必要があるかが見えてくる。
 平成までの農業を振り返ってみると、平成初期に農水省に「経営局」ができたことがわかる。それまでの農政は、生産することが農業で、そこに「経営」という視点はなかったと言える。同じその頃、全国各地にJAに属さない農業法人が増え、日本農業法人協会が生まれた。私たちの会社も、創業こそ昭和37年11月であるが、現在のような法人形態になったのは、平成に入って間もなくである。


農業と顧客間の変化
sawaura2_1.jpg 平成15年くらいまでに、農業と顧客の間に変化が起きた。生協、大地を守る会や、らでぃっしゅぼーやなどの宅配事業が急速に伸び、生協の連合化も進んだ。生協が「添加物」や「農薬」「化学肥料」をできるだけ使用しない農産物や食品のマーケットを大きくしていく時代だった。これは日本だけでなく、欧米でも同じ頃に同じような流れが起きていて、それが現在の大きなオーガニック市場になった。
 米国のCSA(Community Supported Agriculture)の取り組みは米国で始まったと、さまざまな研究誌などで紹介されているが、25年前に米国の有機農業の視察に行ったとき、その起源は日本の生協が行なっていた「提携」という取り組みだったと、カリフォルニアの大学教授や実際にCSAを行なっている農家や会社で聞いた。


 平成15年頃までは、そういった農産物マーケットが大きくなっていったが、それにイチバ(市場)や農協は対応しなかった。そのため、生協は購入先を独自で開発するしかなかった。それが今の産直団体といわれる農家組織となり、当時若かった私たちの会社も、ともに伸びてきた。この農業法人の特徴は、生産者が集まることで販売量を素早く確保できたことである。

 平成15年以降になると、それまでの共同体的な農業法人ではなく、1社で大規模生産を行う農業法人が台頭してきた。それらの法人は、「加工」というマーケットの拡大に合わせて大きくなっていった。この農業法人の特徴は、意志決定の速さである。そして、1法人で10億円を超えるような生産額をもつ農業法人が現れ(畜産では100億円を越える法人も現れた)、経営内容も抜群に良い。現在は、マーケットのさまざまな要望が、そのような農業法人に集まるようになってきた。このように、時代背景や顧客やマーケットとともに農業経営は変わってきた。平成を振り返っただけでも、これだけ農業法人の変貌がある。これをさらに長い時空間でみると、また違った見方ができる。


マーケットが農業を変えてきた
 近代日本の農業は大きく2回変わった。1945年の大東亜戦争終結後の農地解放、1867年の明治維新後の富国強兵と殖産産業振興策の時である。さらにさかのぼってみると、1787年の寛政の改革、1716年の享保の改革があり、1635年には徳川家光が参勤交代制を完成させ、徳川幕府の長期政治の基礎を固めた。これらの出来事が日本の体制を大きく変えたことは歴史の教科書で習った。

 ここでおもしろいのは、参勤交代制完成から享保の改革まで81年。享保の改革から寛政の改革まで71年。寛政の改革から明治維新まで80年。明治維新から終戦まで78年。終戦から現在が74年である。面白いことに、日本では70年から80年のサイクルで、それまでの体制を覆すような転換が起きているということだ。つまり、戦後から74年経った現在は、その大転換期の真最中であるとみることができる。


sawaura2_2.jpg この大転換期に、私たち農業経営者は何をしなければならないのか。まず言えるのは、マーケットが常に農業の形を作ってきたということだ。さらに、転換期においては、過去の延長上に未来はないということだろう。マーケットが農業の形を作ってきたことは冒頭にも書いたとおりであるが、過去の延長上に未来がないとは、たとえばこういうことだ。明治維新前の農業は5haから10haくらいまでの比較的に小さな地主が多く、その地主を中心に農業が行われていた。二宮尊徳が農村復興を行なったのは、そのような時代だった。また、上杉鷹山が米沢藩を復興させたのは、今でいう農業の6次産業化によって付加価値を高めて、京都で販売したことが大きい。

 それが明治維新で大きく変わった。富国強兵の元外貨獲得のために養蚕業が盛んに行なわれるようになり、女工さんたちが作った絹織物が外貨を稼いだ。それによって大地主による農業経営が増えた。新潟では500haを耕す農業会社ができ、大正時代にはそれを手放して、朝鮮半島に1000ha規模の農場を出した。つまり、明治維新後、日本の農業はそれまで以上のスケールで大規模化されたといえる。
 しかし、戦後の農地解放により地主の土地は細分化され、小作農に分けられた。また、開拓行政により、日本の農地面積は短期間に約1.5倍になった。これらにより短期間で食料増産し、他産業へ農村から労働力を出しながら、農協を中心とした農業が定着していった。


経営能力がある農業法人の台頭
 この2つの変化は、それまでの農業の延長上にはなかった。特に、農地解放は農業から「経営」を奪った。1ドル360円という為替は、「経営」がなくても農産物が高く売れて農家として所得を上げることができたし、これは農業だけでなく、他産業もまったく同じ構図だった。しかし、1971年のニクソンショックと1985年のプラザ合意によって、現在は1ドル110円くらいになった。私が幼い頃、アスパラガスは高いものだった。高い時には1束250gで800円だったが、その後輸入が増えて安くなり、父親が嘆いていた時期とニクソンショックがダブる。
 また、プラザ合意前、昭和村にも電気部品メーカーがあり良い経営をしていた。しかし、1ドルが約240円から1年後に約150円になり、その会社は廃業した。為替により輸入品の農産物が大量に入り、競争力を失った。そのころ「経営」能力を持つ農業法人が台頭してきたと思っている。
 こうして過去を振り返ると、「今」が重要な時期であることは分かるが、この先の答えはない。ただ、これからは誰かのモノマネでなく独自で「顧客や世の中が困っていることを自社の強みを活かして解決し、顧客を創造して行くこと」だけが未来を拓くと確信している。

さわうら しょうじ

群馬県利根郡昭和村で農家の長男として生まれる。群馬県畜産試験場研修課程を終了後に就農。「野菜くらぶ」、グリンリーフ(有)設立に携わる。第47回農林水産祭において天皇杯を受賞。農業生産法人グリンリーフ(株)代表取締役、(株)野菜くらぶ代表取締役。(株)サングレイス代表取締役会長。

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