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2025年2月26日
農業と雪(その3)
暖冬の予報が出ていたはずが、2月になると雪が続き、たった数日で豪雪地になった。積雪には慣れているものの、数日間のまとまった降雪のため、高速道路などではスタック車両が続出し、電車は除雪が追い付かず、計画運休になった。
豪雪になると、山形県新庄市の「雪の里情報資料館」が思い浮かぶ。雪害救済運動等により昭和8年に設置され、地元の市民から親しみを込めて「雪調(せっちょう)」と呼ばれていた旧農林省積雪地方農村経済調査所(※1)の跡地に、当時の建物の一部を保存・復元して開設した施設のことだ。調査・収集した資料のほか、雪国・農村経済に関するさまざまな資料が4万点余収蔵されている。雪害に苦しむ農村の救済・更生を担う機関として果たした業績を永く後世に伝えるとともに、雪国文化に関する市民の学習を促し、雪のふるさとづくりに資することを目的としている。
※1 農林省積雪地方農村経済調査所
昭和初期、雪国の暮らしは貧しく、雪国であるがゆえの格差を認識し、地域振興を図る目的で「雪害救済運動」を展開した故松岡俊三代議士の運動等により、昭和8年に設置された機関。昭和58年に閉鎖され、施設や蔵書は新庄市に移管された。
子どもの頃は、雪遊びをすることが多かった。雪合戦は本格的だった。陣地は雪の塀で囲み、雪玉をつくって準備した。氷のように固い雪玉を準備する場合は少し危険な遊びになるが、怪我する子どもはいなかった。最近はスポーツ的な要素を取り入れ、イベントなどでも行われることがある。そういえば、この固い雪玉で雪玉割に興じることもあった。
「かまくら」は、子どもがつくるものでも本格的だった。材料となる雪は無尽蔵で、上級生と一緒につくるのだから本格的になるのは当然のこと、「かまくら」の中で遊ぶのも楽しかった。秋田県横手市の「かまくら」は、夜になるとろうそくの明かりがともり、実に幻想的なシーンが報道されるが、私の地元では子ども専用で、かつ昼間の遊びだった。
冬の遊びで最も回数が多かったのがスキーだ。平屋の地区公民館は、真冬になると屋根と軒下がすっぽりと雪で覆われ、屋根の上からスキーやそり滑りができた。今では考えられないことだが、地元の大人たちは、子どもたちを叱ることはなかった。春が近づけば、晴れた朝には堅雪で、小川に注意すれば、どこまでも進むことができるスキー天国だった。スケーティングのスキー操作(※2)で滑走するが、この名前を知っている仲間はいなかった。
※2 スキーでスケートのように両足を交互に滑らせて進む走法
当時の里山は伐採地が多く、杉林や雑木林の跡地の斜面は、即席のスキー場になった。エッジのついていない昔のスキー板だったが、「転ぶのも楽しみ」そのものの遊びだった。3月の春休みはスギの開花期になり、スギ花粉で黄色くなった雪の斜面で遊ぶ様子は、花粉症が話題になる現在では、想像もできない光景に違いない。当時は花粉症という言葉も、症状に苦しむ人のことも聞いたことがなかった。「戦後に植林された杉の精英樹が怪しい」という自説を勝手に立てているが、他人に話したことはない。「昔の生活環境は衛生的でなかったから」と話す専門家もいる。杉花粉で髪の毛を黄色くして遊んでいた自分たちと、大人になってからの花粉症発症との関連は見当たらない。
子どもの頃の杉の伐採は、運搬が馬そりだったこともあり、冬の仕事だった。私の地方では農耕馬が使われていたが、冬の運搬作業にも使役されるため、家族同様に大事に飼育されていた。農家は曲がり屋住宅で、玄関を入ると左手に文字通りの馬屋がある。「わら打ち石」や「へっつ(「へっつい」の方言、かまど)」のある土間の敷居を上ると、そこは囲炉裏のある居間だった。「かまど」では、農耕馬の飼料の「穀(ごく)」を煮炊きしていた。冬場は青草を飼料にできないため「穀」や「ふすま」などを稲わらに混ぜた飼料を与えていた。
居間の二階は稲わら等の保管や、蚕舎として使用することもあった。かやぶき屋根のため、夏涼しいのが理由でもある。当地方でも蚕を「オコサマ」と呼び、大切にしていた。夏休みになると蚕が二回で飼育されていて、静かな夜には「サワサワ」と、蚕が桑の葉を食べる音が聞こえてきたものだ。「夏休みのクワの葉かきに駆り出される憂鬱」を、以前のコラムに記述したことがあった。
さて、この土間にある「かまど」は、生活改善事業と切っても切れない縁がある。かまど改善が、戦後間もない生活改善のシンボリックな事業だったことは、説明するまでもない。
※「農村女性は、かまど・台所改善による家事労働の効率化や、近代的な衛生学や栄養学を踏まえた家庭経営を学び、これまでのやり方を変えていく」(農林水産省ホームページより)
昭和50年代に普及員になった自分は、改善される前の「かまど」は知らない。この頃、普及事業発足当初から普及員をやっていた農業改良普及員からは、生活改善事業へのリスペクトが感じられないことが多かった。農作業、家事、育児に忙殺されているのに評価が低い農村女性を、生活改良普及員に投影したような話しぶりだと感じたものだった。
自分が知る「かまど」は(たぶん)2口のものだった。「かまど」では、毎日の炊飯などの料理として活用した。地域特産の「凍みもち」(当地方では「干しもち」)は、寒中に短冊状に切り揃え、吊るし編みした餅を、「かまど」にかけた大鍋で沸かした湯に潜らせて、軒下で凍結乾燥させる保存食だ。旧戸沢藩の物産番付表には、わが山形県金山町の「干しもち」がランクインしていた。「干しもち」は、真冬日が連続するほど品質が良いといわれている。同じやり方で製造する「凍みダイコン」も上手にできる。この地方は、真冬日が多いからだ。
堅雪のシーズンになると、雪国でも日射量が増し、里では水田への堆肥搬入が始まる。この時期のスローフード「くじらもち」は、「かまど」に設置された「せいろ」抜きには語れない。もち米粉とうるち米粉(配合は各家庭により異なる)に黒砂糖(白砂糖)、醤油(塩)やクルミなどを練り合わせ、「せいろ」で蒸しあげた餅菓子だ。藩政時代には戦の保存食だったという説明を聞いたことがある。米粉は水に晒して乾燥させてから製粉するが、寒中に処理したものは「寒さらし粉」と呼んでいる。「くじら餅」は好物とは言い難かったが、歳を取るにしたがって好むようになった。
「山神の勧進」(4月2日)と月遅れの「雛祭り」(4月3日)が過ぎると雪解けは加速し、積雪地でも農作業が開始されるようになる。雪国では、雪を起点に生活が営まれているのではないかと思ってしまう。普及員の時、この時期の農業者への普及活動は、前向きな雰囲気が感じられることが多かった。
●写真 上から、
・積雪地の庭木
・真冬の里山
・ジューンベリーの霧氷
・この冬は紅葉しているアイビー
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。