農業のポータルサイト みんなの農業広場

MENU

ときとき普及【73】

2024年7月26日

農村の仕事(その2)


泉田川土地改良区理事長 阿部 清   


 前のコラムで、寄り道の多い普及活動のことを書いた。具体的な例えは難しいが、昭和の時代までの普及事業と職場には、余裕のようなものがあったと(感覚的に)思うのは自分だけだろうか。普及の職場に限ったことではなく、行政や土木の職場においても、同種の雰囲気があったと同僚や知人から聞いたことがある。以前のコラムに記述したことがあったが、OA機器の普及とともに職員数が減少し、ともすれば無機質的な職場と言われるようになったためだろうか。業務の評価が進むと、「無駄は許すまじ」のような職場環境になったと思えて仕方がない。置いて来てしまったもの(?)は、たぶん農業者が普及指導員に期待するもの。もちろん、功罪両面があるのは承知している。


 私が普及員になりたての頃は、普及計画は総合活動と拠点活動に整理されていた。当時の普及担当の専門技術員は、普及活動の研修で(当時は普及手法の研修があった)、総合活動を「普及活動の華」に例えていた。「普及活動の総合力を発揮するから」が、その理由だった。具体的には、特定の地域を普及対象地域として普及計画を立て、普及員の各専門がパッケージで普及活動することだった。私と同じような年代の普及員経験者は、普及現場からの優良事例を目にすることがあったと思う。

 総合指導といえども目的集団を普及対象にした拠点活動が多く、たまたま普及対象地域が重なっていた、もしくは、普及対象地域が最初にあり、普及課題と関係する目的集団があったという事例が多かった。しかし、生活改良普及員が色濃く関係した総合指導は別格だった。生活関連の普及活動には、特定の生産活動と生産組織との関係が深く、これこそが総合活動だと実感したことを覚えている。簡単に言うと、生活改善ネタの入った総合指導は、普及の深みが違っていたということかもしれない。


 当時、生活改善事業は、生活改善実行グループの立ち上げが最初の普及活動であって、活発な生活改善実行グループは、生活改善事業の核心になっていた。その多くが「食」を中心にした活動を行っていたこともあって、当時勤務していた普及所では、「手作りの味交換会」と銘打ったイベントが恒例になっていた。私のような若い普及員はイベント要員として借り出され、「手作りの味交換会」広報のため、広報用スピーカーが搭載された公用車で市街を流すことがあった(本来の目的は、農作業安全や霜注意報発令時などの広報活動だった)。当時の農村では、歌謡曲を流した移動販売車とすれ違うことがあり、多少、抵抗感のある業務だった。平成に入ると、普及所の公用車とすれ違うのは、童謡を流す幼稚園や保育園の送迎車に置き換わるようになった。


column_abe73_4.jpg 「手作りの味交換会」では、決まって「つる細工」が展示され、アケビ細工の存在感に圧倒されるのだった。
 農業者の納屋でも、アケビや山ブドウの古いハケゴ(※)を見せてもらうことがあったが、つる細工の製品として、ハケゴなどから置き換わっていた町行きの手さげやバックを見る機会はほとんどなかった。「手作りの味交換会」のイベントで、アケビ細工の丈夫さゆえに、書類入れとして常用していた生活改良普及員がいたからに違いない。「手作りの味交換会」に、つる細工が数多く展示される理由でもある。


ハケゴ :道具や収穫した物を入れるため、腰につけて使うカゴ


 製作した農業者の技に魅了され、「いつかは自分も」と、心に刻んだ。異動を重ねてもその決意のほどは残っていて、つる細工の材料生産を目的にした研究開発を自身で行ったこともあった。山から材料を調達する困難さを考慮し、時代が追いついてくると思っての研究だった。、現時点で、時代はまだ追いついていないが、一部では栽培の動きもある。つる細工が農業者の仕事なのは間違いないが、農具から離れた製品が多くなり、工人が工芸品を製作する時代になっていた。

 退職後に「つる細工」の機会が訪れたが、すでに、農業者の仕事として技法を習得できる時代ではなくなっていた。製作者の多くは農業者ではない、街の住民だった。工人と呼ぶにふさわしい人もいた。そんな中で自分が出会ったサークルは、趣味の仲間というよりは、セミプロ級の経歴の方々のサークルだった。


 わら細工も然り。伝承する農業者はごくわずかで、多くは非農家が技を伝えるようになっている。農業者は忙しく、ほぼすべてが経済活動に特化されているからにほかならない。自家菜園・家庭菜園の世界も同様で、非農家の充実した菜園、これが現実の姿なのかもしれない。世の中に「小農回帰」の意見が多いが、根っこに同じような発想を持っているのだろう。農村には、ある種のゆとりの日常が似合う。
 
 つる細工の製品が農作業に必要な農具ではなくなったのは、材料の入手が難しいからでも原料価格が高くなり過ぎているからでもない。里山には材料となる樹種が自生しているが、荒れ果てて入山が厳しい。それ以上に、獣との遭遇が心配だという。持参したラジオの音量を大きくして、里山に分け入るのが日常になっているのは、自分だけではない。


 念願のつる細工を始めて、最初の作品(?)は書類入れだった。持ち物を入れるバックは、両手が自由になるようにショルダーバックにし、複数の材料で作ってみた。ペンケースや小銭入れ等々、自分の持ち物は自分で作るようにしている、と説明することにしている。

 「人に頼まれたものは作らないの?」と、ときどき聞かれることがある。そんな時は、「その価値のある製品を作れる技量が、今もこれからもない」と答えることにしている。技量の問題よりも、依頼されるプレッシャーが心地よいと感じるほどの境地には達していない。つる細工サークルの先達は、「この道は険しい」と話していた。「ときとき普及」と同じことだが、技術と普及活動は、水準以上に達していないと、プレッシャーを楽しむ境地にはなれない。一流のスポーツ選手が「競技を楽しみたい」と話していることがあるが、プレッシャーを楽しんでいるのだろうと、勝手に解釈している。


column_abe73_1.jpg  column_abe73_2.jpg


 いまの普及指導員は、農業者と関わる中で、つる細工に出会うことがあるだろうか。つる細工も、農業者・農村という範疇から離れて久しいので、チャンスは少なくなっていると思う。それよりも、興味がなければ気づくことすらない。「多様な興味を持たないと、実につまらない普及活動になる。普及の寄り道は大切だ」とは、個人的な思い込みだが、「普及は、これが可能な職場だからガンバレ」と、普及指導員に伝えたい。


●写真 上から、
・展示会
・左:初めて作った書類入れ(ひご:オニクルミ)
・右:次に作ったショルダーバック(ひご:ヤマブドウ)

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

「2024年07月」に戻る

ソーシャルメディア