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ときとき普及【72】

2024年6月27日

農村の仕事(その1)


泉田川土地改良区理事長 阿部 清   


 車に乗っていた時のこと。妻が「この車は青年だね」と話しかけて来た。
 なにごとかと思ったら、自動車がナビに収録されていない道路を走行していて、地図上では原野を走っていることになっている。原野=荒野→青年という発想になったのだという。とっさに「最近の青年はスマホが大事で、コンビニがない街を嫌うから」と言うと、「それよりも、Wifiがない場所は避けられるかも」と返ってくるのだった。

 我々は、五木寛之の「青年は荒野をめざす」と、同名のフォークソングの二つを知っていて、(短絡的かもしれないが)「青年」から「荒野」を連想することに、まったく違和感のない年代だ。「昔の青年は、無駄、無理が普通だった」と、こんな具合に結論づけられる。「昔は、昔は...」と連発する年代になって久しく、同じ内容を繰り返すようになるのも近いかもしれない。 

 青年が無意味な時間を過ごす必要性を説いた、ある有名大学の総長(だったか学長だったか定かではない)の話を思い出した。たしか、「4年間の無駄な時間を過ごすことが、長い人生の糧になる」のだと、青年諸君にはほぼ理解できないようなことを問いかけていた。無意味な時間を肯定するフレーズだけが気に入っていた。青年は無駄なことを楽しむ余裕がある。しかし、高齢者は明日という時間が少ないから、無駄なことを肯定したくないのかもしれない。


 普及員になった頃は、新規採用の普及員は、ほぼ期待されない存在だと思っていた。普及所内だけの話ではあるが、知識と経験がほとんどないわが身を振り返り、農業者との対面も避けたい気持ちになることが多かった。
 長期研修を終了して配属された普及所は「放し飼い」、いや「放牧」のような立ち位置を私に用意してくれた。自分にとっては、理想とする職場だった。この牧場は、荒野=農業・農村であって、「青年普及員は農業・農村の荒野をめざす」と勝手に形容し、具体的な普及活動の目的(用事)もないのに、普及所管内を勝手に動き回っていた。これが実に楽しかった。

 かつて知り合った先輩普及員は、農村に溶け込む人が多く、給料支給日や会議の日以外は、普及所に戻らない普及員もいたという話を以前のコラムで書いたことがある。自分に置き換えると、さすがにその頃とは職場環境が変化して、多くの普及員は週間活動計画に従って普及活動を行う時代になっていた。農村で普及活動(?)していると、農村生まれの自分でも知らないことが多いことに気づき、じつに有意義だった。そして、この時の経験は、後の普及活動にとって無駄なものではなかった。


 さて、今回からは、農村の仕事を紹介することにしたい。


column_abe72_3.jpg 普及員になったばかりの頃、農家の作業場兼納屋を訪ねると、使われなくなった民具などが発見できた。瘦せ馬、背中当て、かんじき、ハケゴ等々。農具では手押し除草機、型枠、田均し棒、鋤、犂、唐箕、足踏み脱穀機など、多くのものを目にする機会があった。


 荷物を背負う時に使用する背中当ては、農村・山村を問わず、広く使用された。本県の庄内地方では、背中当てを「ばんどり」と呼び、カラフルな布が編みこまれたものは「祝いばんどり」として冠婚に使用されたという。「祝いばんどり」を製作できる農業者は尊敬されたという話を聞いたことがあった。その話に疑問をさしはさむ余地がないほど、農具というよりも工芸品としての出来栄えだと感じた。

 わら細工は、農村や山村の各シーンを支える大切な「仕事」になっていた。物心がついた一時期だが、米は俵で出荷されたことを記憶している。食管法の「供出」と呼んでいた時代の米の出荷風景だ。俵づくりは農家の冬仕事だったが、俵の部材になる俵編み機で作った菰(こも)と桟俵(さんだわら、さんだら=方言)は、雪の踏み俵として記憶に残っている。縄は農山村の生活の多くで、例えば樹木だけでなく、家屋の雪囲いにも使用されていたため、縄綯機の動く音は、今でも鮮明に記憶している。


column_abe72_1.jpg 普及員時代には、秋ダイコンの収穫期のダイコン干しの編み方に関心があることを、気取られない様に真剣に観察した。トウガラシの編み方も同様だった。庭木の雪囲いを発見すると、荒縄の結び方で出来栄えを判断した。
 今はやりのコキアを眺めると、土間用の箒の主材料になったホウキグサ(ホウキギ)を思い出す。お隣の秋田県では、この子実を「とんぶり」として食用にしていたことを知ったのは、普及員になってからのことだ。「畑のキャビア」として観光土産になっているのを目にして、皮の剝き方が普及員仲間で話題になったことがあった。

 ホウキモロコシを畑で見つけたのも、普及員になってからだ。
 装飾された座敷帚は、今では大変高価なものとして販売されることがある。掃除機があたり前の時代、民芸品としての扱いになっているのだろう。
 笹巻や昆布巻きニシンの結束用のミゲ(方言)は、正式にはイグサと呼ぶのだという。里山の入口付近に自生していることは、地区民でさえ知らないかもしれない。スーパーでは、そんなに高くない値段で販売されているから、わざわざ採取する必要がないのだろう。

 同じ仲間のスゲは、スゲ傘としか考えが及ばなかったが、蓑にも編み込まれていたことを最近知った。オッカワ(ウリハダカエデ)のニセミノ(「荷背負い蓑」の方言)を見せてもらった時には、その優れた仕事ぶりに感嘆した。技巧を凝らしたニセミノは、婚約した女性への送り物とされることもあったというぐらい、一人前の農民としてのステータスになっていたという。


column_abe72_4.jpg  column_abe72_2.jpg


 ある普及所を異動する際に、小ぶりな箕(み)をもらったことがあった。これらは、イタヤカエデ(たぶん?)の木を薄く剥いで作られた、管内の山間地域の冬の仕事だった。しばらくの間、歌人斎藤茂吉の色紙の額代わりにしていた。お隣の秋田県でも、同じ材料で民芸品を製作していることを知った。山形とは生活スタイルが重なることが多いのだと思う。


 数種の樹木を曲げて作る「かんじき」は、スノーシュー(西洋かんじき)が普及するまで身近に触れることができた。普及員は、事あらば積雪を踏みしめて目的地の畑に行くことがあったからだ。積雪地域の果樹担当の普及員にとって、「かんじき」は必需品であった。昔の普及所の用具室にも備えられていた覚えがある。地域ごとに異なった材料を使っていたことも興味深かった。


 寄り道の多い普及活動、これが「普及活動の独自性」と言えなくもなかった。今の普及指導員がこのような普及活動をやると、管理職の上司から厳しい指導を受けるかもしれない。世の中が変わってしまって、「青年普及指導員は農業・農村の荒野をめざす」ことなど、出来ないのだろう。


●写真 上から、
わらじ
米俵と馬そり
わら蓑、皮蓑
雪ぐつ

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

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