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2024年4月18日
農業の生産性(その2)
「山形県がどこにあるかは分からないが、特産がサクランボということは知っている」という調査結果を聞いたことがある。もうすぐサクランボのシーズンなので、サクランボをネタに「切ない生産性」の課題を考える。
サクランボは、野菜的な果樹だと思っていたことがある。品種や栽培技術の変遷が激しく、その時々の経済情勢で取り巻く状況が大きく変化し、それに合わせて産地が拡大して来たからだ。このような思いを抱くのは、県を挙げてサクランボの品質向上に取り組もうとしていた時期に普及員になったからでもある。そういえば、オウトウの品種開発の農林水産省の指定試験を開始することになったのも、この影響だったと思う。
まず、「オウトウ」と「サクランボ」を考えてみる。
「オウトウ」と「サクランボ」はほぼ同じ意味だが、現在は「オウトウ」よりも「サクランボ」を使用する機会が圧倒的に増えた。極端な話、「オウトウ」ではダメらしい。果樹農家、果樹研究員や普及員は「オウトウ」を使用してきた。そういえば、そんなに昔ではない県議会の答弁で、「園芸作物としては『オウトウ』とし、収穫した果実は『サクランボ』として流通している」と、公式に答弁されたことがある。オウトウとサクランボの関係は、この説明が一般的なのだろうと考えている。
さて、「サクランボ」の由来は「桜の坊(実)」、「桜桃(さくらもも)」から来ているという説がある。桜桃忌は太宰の小説「桜桃」がベースになっている。発売当初、NHKで放送禁止になったという「黄色いサクランボ」を、ゴールデンハーフが実に悩ましくカバーしていたが、「サクランボ」は、昔(?)から一般に使われていたのだろう。
平成になって、山形新幹線が新庄まで延伸した際、車内放送で告げられる「さんらんぼ東根駅」のアナウンスが、いつの間にか何の違和感もなく、ごく自然に車内に響いている。「サクランボ」をネタに地域づくりを提唱・実践した市長の、その卓越した発想に最大限の敬意を表しながら面談したこともあった。この地域では「サクランボ」が普通なので、市民からの異論はないとのことだった。
秀逸なのは、サクランボをイメージとして商標登録した、JAグループの「小さな恋人」だ。多くの山形県人のイメージが重なっているようで、サクランボは2個なっているのが普通だと信じている人もいるほどだ。「サクランボ農家は、手間をかけて2個連なりの果実をもいでいるのだ」と、消費者のイメージを壊すようなことを真面目に話す、自分を含めた普及員も多かった。
山形県では、サクランボが最初に流通する代表的な農産物ということもあり、多くの県民にとって、県をイメージするものということに疑う余地はない。最近、産地の道の駅がリニューアルし、サクランボ関連の売り場が2倍になったという報道があった。テレビ局が恣意的に選んでいるのかと疑うぐらい、来館者は口々に好意的なコメントをしていた。山形県民でサクランボが嫌いな人は、ほぼいないのだ。
ある会議で、オウトウの労働力不足が深刻なことや、温暖化の影響でオウトウが作りにくくなっていることが議題になった。ひとしきり議論が続き、結論は次回以降に持ち越しになった(正確にいえば、解決策はほぼないのであるが)。
会議終了後、産地の農業者と立ち話になった。「人手不足は大変な問題で、他産業へ人手を取られているのが良くわかる。(オウトウの)経営規模を拡大したところでも、簡単には儲からない時代になってしまった。省力的な樹形の必要性は理解できるが、その技術を評価するには長い期間がかかる」と、ある産地の生産者は話す。「そんなに労力不足が大変ならば、労力のある地域に園地を移転する方法もある。冬季は居住する寒冷地から温暖地に移動して農産物を生産する、という農業者の話を聞いたことがあるだろう。"made in"ではなく"made by"と称しているらしい」と。こんなことを口にした途端、会話が途切れた。農業者と農地の、切っても切れない関係を理解しないヤツだと思われてしまったに違いない。
以前のコラムで触れたことがあるが、私が普及員になった頃に、米国産サクランボの輸入自由化があった。本県のオウトウ産地は、食味向上・高品質化によって米国産サクランボに対抗する道を選んだ。品種は、加工原料用の「ナポレオン」から生食用の「佐藤錦」に切り替えが進むと同時に、裂果防止のための雨よけ施設の設置が急ピッチで進められた。そのため、産地の資金需要が高まり、当時普及行政を担当していた自分は、農業改良資金の審査会に出席する際は、申請書を満載した台車で会議室に駆けつけるほどの資金需要があった。雨よけ施設設置に関する経費は、1回目が県単独の補助事業、2回目が無利子の農業改良資金、3回目以降が低利の農業近代化資金が定番になっていた。
実際に輸入解禁されてみると、県産の白肉に対し、米国産サクランボは赤肉で、消費のすみ分けができるらしく、市場関係者は「両者は別の農産物といえるのかもしれない」と話をするのだった。「価格が安い米国産サクランボが、結果として山形県産サクランボの消費拡大につながった」と説明するセリ人もいた。農産物の輸入自由化の優良事例とされることもあったが、「産地の生産構造の改善あってのこと」と、できるだけ輸入自由化を除外して理解するようにしていた。
この時期、水田の集団転作によるオウトウ団地の造成と、忘れてはならない宅配の流通革命があった。毎年、知人にサクランボを送った際、開封の連絡を受けるまでのハラハラドキドキ感こそが、収穫後の痛みの早いサクランボの特徴だと話す先輩普及員がいた。サクランボの鮮度低下は宿命のように語られることがあり、水冷で急速に品温低下させる鮮度保持技術の開発に取り組んでいた果樹研究者の眼差しは忘れられない。荷痛みの速さゆえ、プラス要因として他県への産地拡大を制限していると話す先輩普及員もいた。
いつからか、宅配による品質劣化を心配することがなくなった。宅配業者の品質保持技術よりも、生産者や産地におけるサクランボの品質向上技術が飛躍的に波及したからだ。
この頃は、オウトウの生産性に問題はなかった。果樹農家は規模拡大とともに雇用を増やしていた。サクランボ=儲かる農業とイメージされ、果樹関係の事業を財政当局に説明すると、決まって「サクランボは儲かっているのでは?(=自力で十分では?)」と、即座に返されることが多かった。「老夫婦がサクランボを置き並べ詰めし、一日に10ケース高級果物店に出荷する」が、当時のサクランボの豊かさのひとつとして語られていた。
今の普及指導員は、産地の生産構造が急激かつ大胆に変化するさまを経験するチャンスがどのぐらいあるだろう。「産地が変化するほど普及員の存在感が高まる」と、以前コラムに書いたことがある。オウトウ産地は、消費の変化や輸入自由化、宅配への対処などで生産構造を変化させた。その時々に生産性の向上が図られると同時に、普及活動のあしあとが随所に残っている。果樹農家が「サクランボは15年、20年スパンで考えている」と話すのを聞き、「それは、ようやく野菜や花と同じになっただけだ」と、やや冷たく考えていた。野菜の専門担当だからこその考えだ。
人口減少下で、労働力不足への対処はどうすればよいか。後にならないと分からないことだが、きっと、サクランボ産地へ吹き込む時代の風は、消費だけではなく観光需要が重要であって、その先の生産性の向上があってこそのサクランボ産地だと思えて仕方がない。
●写真 上から、
・収穫期のオウトウ
・オウトウの摘果作業
・オウトウ栽培講習会
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。