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2024年1月29日
昔と今(その7)
災害は自助が大切。自助で大切な「備えあれば憂いなし」は誰もが知っているフレーズだ。この「備え」を再認識したのが、能登半島を襲った大災害だ。
「1週間分でも足りないかもしれない」。地域のライフラインンが損傷するレベルの災害があった場合、自分の住む中山間地域はどのぐらい持ちこたえることができるか考えてみた。食料はともかく、エネルギーは燃油と電気に頼り切っていて、そのほとんどを太平洋側の供給基地に依存していたはずだ。水道は広域水道なので使えないし、薪炭を利用できるような住居ではない。結局、持ちこたえるのは難しいという結論になった。
災害支援は「公助」と「共助」が思い浮かぶ。流行りの地域防災計画が実態として機能している地域がうらやましい。能登の震災で「休み明けに仕事に出かけてしまい、避難所の人手が足りない」という報道があった。これが中山間地域の共助の現実だということは認めたくない。
今度の通常国会で、食料・農業・農村基本法改正が審議されるとの報道があった。
戦後の食糧増産時代がすでに終了し、1961年(昭和36年)に制定された農業基本法(旧法)により、農業・農村では農業生産の選択的拡大、生産性の向上、農業構造の改善が進んだ時代に普及員となった。普及計画にも、農業生産の選択的拡大、生産性の向上と農業構造の改善などが重要な用語として出てくることが多かった。しかし、日常の普及活動で農業基本法を意識することは少なかったと思う。
この時代、普及手法は先駆者などにより論理的に整理され(?)、広域を普及対象にした総合指導などでは、農業構造の改善を目的にすることが多かった。先輩普及員の普及活動のエキスは、新任普及員の集合研修のネタになっていた。ほとんどの研修がレポート付きで、受講が大変だった思い出がある。
実務では、園芸産地や畜産基地の育成、流通問題や農業(農家)経営問題を扱うことが多かった。当時は、普及員を対象にした集合研修(県、農林水産省)や現地検討会、県外研修が今よりもかなり多かった。研修が普及組織ならではの特徴になっていることを認識したのは、平成の時代に予算要求をする立場になってからだ。OJT研修も平成になってからのことだ。
現行の食料・農業・農村基本法が制定されたのは1999年(平成11年)で、食料自給率の向上や農業の持続的な発展、多面的機能の発揮といったワードが登場した。農業の持続的な発展は、環境保全型農業として普及計画にはエコファーマーの育成が登場した。その頃、明治神宮会館で開催された普及関係の大会で、「コウノトリ育む農法」の普及活動成果を聴きながら、時代は変わって行くのだろうと考えた。同時に、農業・農村の多面的機能の発揮は多面的機能支払制度として、従来から開始していた中山間地域支払制度に加えた新制度が開始された。どちらも現行法では重要な柱建ての施策になるが、具体的にイメージするまでには、さらに時間が必要だった。
2024年に制定が予定されている新法(改正「食料・農業・農村基本法」)では、「「食料安全保障の抜本的な強化」、「環境と調和のとれた産業への転換」、「人口減少下における生産水準の維持・発展と地域コミュニティの維持」の観点から見直しを行う」とされている。この直前には、農業経営基盤強化促進法、農地中間管理事業推進法や農地法などの関連法が改正されている。ごく少数の担い手農業者が、多くの小規模農業者の農地を活用して農業生産を行うさまは、農業法人の実践から想像ができる一方で、「ごく少数の担い手農業者が農業・農村をリードしていく姿をイメージすることは難しい」のが、昔の普及員である私の率直な感想だ。普及員として、これまで多様な担い手が共存する農業・農村を一普及員として体験しているからだ。だからといって、昔の農業・農村が豊かだったとか貧しかったとかいう話ではない。
普及員になった頃に放送されていたドラマ「おしん」の主人公は、山形県の最上川中流域の寒村が生家で、その貧しさは、あの時代の一般的な姿として演じられていた。当時流行った「おしんの子守歌」では、寒村で大根めしを食べる光景が唄われている。この民謡調の曲は、当時勤務していた普及所でも人気だった。ロケ地の湯治場が管内だったということも関係しているかもしれない。その頃の普及所では暑気払いや忘年会は宿泊付きで、その湯治場を利用することが多かった(尾花沢市銀山温泉:この湯治場は大正ロマン漂う温泉地として、内外客の人気観光地になっている)。
当時の農村は農業所得は少なかったが、農家所得はサラリーマン世帯と遜色ない水準だった。農閑期に出稼ぎをする農家も多かったが、夫が出稼ぎをすることは、妻にとって精神的な重荷になっていた。出稼ぎシーズンには100~120万円が送金されることが一般的で、特別な技能を有する農業者は2、3割多く稼いでいた。
兼業によって生活を維持する姿が一般的だとすると、農業者が貧しいというのは間違いではないが、貧しいとイメージすることは農家経済全体を定義していないし、否定する場合は農業者の努力を把握していないような気がしていた。
普及員は、比較的経営規模が大きな農業者を対象にすることが多かったため、普及活動で目にする農業者の姿は、前向きで明るく映ることが多かった。「普及は農業者の前向きな行動に正面(農業)から応えるべきだ」などと、生意気なことを考えていた。
地域には、通年出稼ぎを行う農業者(制度的には農業者とは言わない)も存在していた。彼らが自宅に送金する金額が、普及活動対象地域の生産農業所得を上回るケースもあった。1次、2次のオイルショックを経て、他産業の生産性が飛躍的に向上したからでもあった。平成になると、耕作面積10haの水稲農家の農業所得では、家族の生活を支えられない事態が直前まで迫っていた。知り合いの農業者に水田を委ねていた先輩普及員は、「農業者は私を気にかけてくれるが、水稲の所得水準を考えると、こちらの方が申し訳ない」と話すことがあった。
新法が描く農業・農村は、限られた農業法人が牽引していくことになり、多様な担い手が主流になるとは考えられない。しかし、ひと昔前のように、地域の農地を担う農業法人に地域農業を支えてもらうことを期待してはいけない。地域の下支えは公助や共助で行うべきで、それを担うべき主体は地域以外にはないからだ。だとすれば誰が担うのか? 多様な担い手以外には残っていない。しかし、多様な担い手が地域を支えることは、活動の範囲が広すぎて荷が重い。
●写真上から
・里山に近いと見えない遠くの山並み(1)
・里山に近いと見えない遠くの山並み(2)
・里山近くに住んでいると里山しか見えない
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。