MENU
2025年
2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
2019年
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年
2007年
2023年12月26日
昔と今(その6)
今年の水稲の一等米比率は危機的な数値となったが、出穂期の異常な高温が要因として説明されていることが多い。
7月の中旬までは、例年通りの梅雨模様で雨が多かったが、下旬になると、それまでの天候が一変し、晴天が続くようになった。いつものように「そのうちに雨が降るだろう」と安易に考えていたが、期待するような雨は降らず、中山間地域では滅多にない灼熱の夏となった。
慢性的に用水が不足している沢水掛かりの水田で「干ばつ」の声が聞こえるようになったのは、7月下旬だった。8月になると最上川の水温は高く、用水として利用している広範な地域では、「風呂のような状態で、ほぼ40℃」という声を耳にするようになった。私の関係している土地改良区は最上川支流の上流に水源があることから、用水不足が懸念されることはあっても、用水温が心配されることは、これまでなかった。
土地改良区の関係者は、「感謝すら寄せる組合員もいた」と、初めての経験を嬉しそうに語った。「用水路に水が流れているのはごく普通のことだが、想定外の干ばつによる用水不足で、その価値を再認識しているのだろう」と。「用水が流れていることが当然で、その有無ではなく水量が指摘されるのが常だ」とも。
水利がなかった昔は、用水不足になると、地域間で水の争いが絶えなかった。緊急避難的な最終的な落としどころは"神頼み"(希望する地域が水神様をお参りすること)して分水してもらうことになる。分水が既得権化しない工夫なのだ。それだけ水利権(当時は慣行水利権)は絶対的な存在で、水路は地域の共同作業として維持管理されてきた。
ひとたび水利事業が実施される(事業化するとほとんど許可水利権に切り替わった)と、生育期間中に用水が流れるのが普通になった。"普通"の尺度は、昔と今では大きく異なっている。水利とともに水田が増加していくさまは、終戦後に普及事業を担った先輩普及員から何度も話に聞いた。米は、精神的にも経済的にも絶対的な存在で、長らく農家経済を支えていた。米をめぐる情勢は、幾多の変遷を経た今でもなお、昭和生まれの農業者にとっては精神的な存在であり続けている。
米主産県においては、水稲を尺度にした会話が圧倒的に多い。昭和生まれの農業者にとっては、水田面積が農家の「富の尺度」になっていることが多い。現実の経営でも、「水田の自作地が2、3haで励めば家族を養い、子供を教育し、最後に蔵が建つ」と言われた時代が、たしかにあった。
「東北地域は稲作の生産拡大が主要な施策で、農業改良普及員の重要な役割として、寒冷地稲作、多収技術が主なテーマになっていた。農村でも、稲作の篤農家は尊敬される存在で、篤農家の水田に特長(田植え用長靴)で入った普及員が、素足で入ることを求められた」という先輩普及員の話を思い出す。農村における米や水田の価値観を物語っている。
野菜類は、冷害の年に収量や品質が良く、干ばつの年には価格が絶好調だったりする。産地によって作目や作型が多様であるため、気象変動によるプラス・マイナスの振れ幅が大きい。稲作は収量のブレが少なく安定している。園芸作物の場合は3割減で相当なダメージと感じ、水稲の場合は1割程度で同じように反応する農業者が多かった理由に通じるものがある。
(所得率が低いことが多い畜産や鉢物花きでは、販売単価や株落ちなどが5%程度低下するだけで、経済的には大変な損失になることがある。また、単年度で黒字決算でも、資金繰りに行き詰まって経営を断念するケースもあるなど、今の普及指導員は大変だと思う。昔はこのような経営的な悩みは普及員にはなかった・・・かな?)
「100年に一度の大冷害」と呼ばれた平成5年は、夏秋キュウリやタラの芽は絶好調だった。過去最高の単収と売り上げだった農業者もおり、未だ破られない記録となっている。水稲にとっては大打撃を受けた年で、全国的に米の需給が逼迫し、対策として輸入米が主食用米に用いられた出来秋だった。同時に、炊飯技術が急速に進歩し、関連の知財がこの年以降に集中していたことを知ったのは、後年6次産業化が施策としてクローズアップされた頃になってからだった。大冷害の年は稲作がメインで、農業の「影」とされているが、幾多の「光」があったことが語られることはなかった。表に出して語ることがはばかられるような雰囲気が、当時の農業・農村にはあった。
猛暑と干ばつの今年は、ニラやネギなどが絶好調だった。
販売価格が高い時には、多くを語らない農業者が増える。軽い口調で話しをするとツキが逃げてしまうと警戒するのだと思う。対面した農業者はいつになく口調が穏やかで、口元もほころんでいる。それでもなぜか、調子が良い云々を説明することはしない。「説明されなくてもわかる」と強がって「昨日は何ケース出荷したの?」とか「Lと2Ⅼの値段は?」など、さりげなく状況を聞き出そうとする普及員気質は、まだまだ抜けていない。
中山間地域の冷涼地に属していても、今年の暑さは尋常でなく、栽培技術の良し悪しがポイントになっている。技術面からいえば、劣悪環境下の栽培方法は核心となるものではない。この部分を得意としているのが篤農家に多く、普通の気象条件の年には理解できないような説明を聞くことがあった。そういえば、ギリギリの栽培技術を身上とする先輩普及員がいた。先輩の説明を一歩も二歩も下がりながら聞き、役立つときが来るのかを考えたこともあった。近年は、想定外の出来事が続くことが多いので、「そういえば、先輩普及員はこんなことを言っていた」と、思い出すことがある。そんな時、「だから災害対応は、普及員の十八番なのだ」と考える。
以前のコラムで、普及員に必要な技術の幅について書いた。「高品質米は適地の北限で生産されやすく、その外側には優良な夏秋野菜の産地が存在する」と。これは個人的な考えに過ぎない。昔、普及員だった時代には、農業・農村の幾多ある言い伝えを聞くことがあったが、気象や水利に関するものが圧倒的に多かった。かつて巷で話題になった都市伝説にならえば、それよりずっと前からの農業伝説なのだと感じている。
●写真上から
・桝澤ダム全景
・桝澤ダム堰堤
・頭首工
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。