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2023年10月27日
昔と今(その4)
今年の秋はひと月遅れで始まった。もし、例年どおりに冬が訪れるなら、秋は短くなる。春と秋が短くなったという話を聞くことがあるが、夏が長く(厳しく)なったという方が正しいと考えている。今年の紅葉は遅いのではないかと予想していたのは少し前のこと。北風が吹いて、遠い山で紅葉が確認できるようになった。半そでの生活から、ほどなく暖房機器のある生活に移るさまは、いままでに経験したことがないスピードだ。急激に変化することを"イノベーション"や"革新"などと言うのだが、天気の分野では、用法として正しくないらしい。
いまの普及指導員は「ブルームレスキュウリ」を理解しているだろうか。キュウリにブルームが発生すること自体、現在ではあまり知られておらず、「死語」になっているかもしれない。
私が普及員になりたての頃は、逆に「ブルームレス」の概念がなかった。果実表面にうっすらと粉の吹いたものが普通で、ブルームがきれいなほど新鮮だと消費宣伝されていた。ブルームにできるだけ触らないようにして箱詰めすることを売りにする産地もあった。「朝もぎ新鮮キュウリの証」だと消費宣伝する産地まであった。かつて本当にあった話である。
キュウリのブルームは、収穫初期にはほとんど発生しないが、生育中盤、夏秋の作型では梅雨明けの8月上旬になると多くなる。梅雨明けの乾燥に、キュウリ自体が対処するためとの説明を受けたことがある。生育が悪くなると、曲がり果、ふけ果、ながれ果が多くなるが、ブルームの発生は生育不良を要因にしたものではないので、自然な成り行きと考えていた。
特定の台木品種によるブルームレスキュウリは、ブルームがない(=レス)ため、果実の表面は美しいが皮が固いという噂が、まことしやかに流れたことがあった。今回のコラムの本題は、これを真に受けた普及活動の話である。
産地がブルームレス台木に置き換わったころ、ある青果市場から「ブルームキュウリが食べたい」という提案があった。「ブルームキュウリ」とは「昔のキュウリ」のことだ。その時代に夏秋栽培で名をはせた産地で、早速ブルームキュウリの生産を再開することになった。この間の経緯は、以前のコラムに書いたことがある。
結論から言えば、この産地づくりは大失敗だった。
当時から、キュウリ消費の大部分はサラダ用。皿かざり的に多用されるもので、昔のような糠漬け用途は少なくなっていることを理解していなかった。あれほどおいしいと思っていたブルームキュウリは、それほどの味でもなく、逆に、比較対象としたブルームレス台木にあうように品種改良された穂木品種のレベルの高さに驚いたものだった。
昔、ブルームレスキュウリはたしかにおいしかった。夏秋の作型では、8月下旬から9月にかけてのキュウリの味は絶品だったが、ブルームレス台木の普及によって、対象が驚くほど変化していることに気づかなかった。キュウリの消費形態が変化しているのかもしれないが、穂木品種の開発にイノベーションが起きたのは間違いないと思う。
「『昔から作られているから』という回顧だけで物事を決めつけないようにしよう」と、普及活動対象の農業者との実績検討会で、強く・深く反省の弁を述べた覚えがある。収量や品質だけではなく経済面でも優位性がないことから、ブルームキュウリ生産は1作のみとなった。
在来作物・伝統野菜は何度かブームを経験したが、古くから作られているというだけで「有難いもの」として扱うことがないように心がけていた。なぜなら、新品種も古い品種も時間は同じく経過しているという意識があったからだ。在来野菜は守りだけで維持されてきたのではない。農業者の厳しい目があったからこそ、時代に合った特定の特性を繋いできたのだと思う。
昭和60年頃に、在来作物の資料集(図鑑のようなもの)に収録するため、普及所管内の在来作物を調査する機会があった。マメやカブを担当したが、これらは昔からの地域の食生活(ソウルフード)に欠かせない食材だった。エダマメでおいしいなら味噌も絶品だ、カブは雪国の食を支える位に重要な漬物の原料だ、ダイコンは囲炉裏端で乾燥してから沢庵付けに加工、養蚕の指導員からもらったインゲン等々、多くの話を聞くことができた。在来作物は、地域の生活に根付いていたからこそ、常に新しい形質や品種を見出されても、表面的には守られて来たように見えるのではないかと考えた。
古さや歴史は、畏敬の念をもって紹介されることがある。50年前・100年前と名称は同じだが、年月が過ぎれば特性は違ってしかるべきと考えるようにしていた。ただし、多くの識者が説明するように、遺伝資源として貴重ということは言うまでもない。
若い研究員だった頃、先輩研究員から「山形ダイコン」が「耐病総太りダイコン」の親になっていることや、「蔵王ハクサイ」が市販品種の遺伝資源になっていることを聞いたことがある。いま、この存在すら知らない普及指導員が多いと考え、あえてコラムに書くことにした。
話をしてくれた先輩普及員は、若かりし頃にこれらの品種を供試して研究を行っていたというから、古い時代に山形に根付いた野菜であることは間違いない。
以前「山形ダイコン」の採種業務を手伝ったことがある。
加工向けで肉質が固く、総太りではあるが青首ではない。夏の病害には強かった。アブラナ科のラファナス属は鞘が弾けない特性があるため、採種に苦労した思い出がある。作業をおこないながら、この在来作物の遺伝資源がヒット商品の青首ダイコンに組み込まれていることを想像してみた。遺伝子で生き延びることは、農業分野では自然な行為だ。
普及員だったころには、農業者の種苗登録に何度か立ち会ったことがある。
育成者にとっては、種苗登録は幸せな出来事になるが、顔が見える範囲の農業者との関係では、育成者権は不幸せになることもあった。権利を持つことによって、今までなかった地域の農業者との垣根ができるからだ。そのさまを見て、育成者と許諾者との関係が分断される「災い」だと感じたこともあった。
種苗育成者に対する農業者の認識は「汗水たらす労働」とは見なさないというものだ。感謝はするけれど、登録品種の種苗に上乗せされるプレミアムな種苗費は理解しがたいものだったようだ。在来作物や伝統野菜がたどったように、種苗に権利が存在(継続)することなど、考えもしなかったのだろう。
種苗法により、種苗に対する農業者の意識が急激に変化していく様子は、直接経験することができた。いま、登録品種のことを知らない農業者は、まずいないだろう。理解しにくいと言われる従属品種も、育成者側の視点からは、案外すんなりと理解することができる。
●写真:普及指導員の活躍 上から
・ネギの収穫を確認
・エダマメの生育についてアドバイスする専門技術員
・リンドウの開花状況を説明
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。