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2021年4月28日
普及員と研究員(その2)
最初に研究員に異動になったのは、26歳の時だった。
配属された野菜花き部には、「新任者(栽培の初心者)は、主担当にしない」という不文律(?)のようなものがあった。初心者の担当する試験研究では、野菜栽培に真剣に向き合っている農業者に対して説得力がなく、失礼にあたるということだった。
野菜の栽培に関しては多少なりとも腕に自信があったが、一日中圃場で管理作業に明け暮れる肉体労働の毎日は妙に新鮮で、素直にうれしかったことを覚えている。
当時の(今も?)山形県は、果菜類の産地に特徴があった。
県内陸部は、梅雨期間に「梅雨の中休み」と言われる晴天日の出現率が高く、この気象条件を活用した作型が開発されていた。野菜栽培では、寒冷地ゆえの、定植時期の低温を克服するため、定植時の工夫やトンネルを活用した早熟栽培が特徴となっていた。
(この期間が収穫期にあたるサクランボ(オウトウ)は、雨による裂果が問題となるが、山形県が一大産地として発展した理由と相通ずる部分がある)
そのため、育苗技術が重要視されており、研究員同士では「苗質」を論点とする研究が多かった。
一般にはなじみのない「苗質」とは、定植時期の気象条件の変化に耐えられるような能力をもった苗のことである。苗の素質として説明すると、さらに理解しにくいという人もいるが、苗の形状で表現すると、コンパクトで太い茎と厚みのある葉を持つものが質の良い苗ということになる。そのため、育苗においては生育適温の範囲で低温管理し、かん水は細心の注意を払って控えめにすることになる。育苗に厳しかったY先輩からすれば、徒長しやすいセル育苗などは論外であった。時折テレビなどに息も絶え絶えに見える徒長した苗が映ると、先輩ならば絶句するだろうと思うことがある。
育苗期間の短いウリ科野菜はさておき、期間が長いナス科のトマトでは、「苗半作だ」と、ことあるごとに先輩から言われ続けた。ウリ科野菜は側枝に雌花が着生する。しかし、トマトは第1果房第1花が開花する定植適期には、少なくとも第3花房までが決定づけられているとの説明だったと思う。「品種改良されているし、長期どりの作型が主流になっているから、今は昔だ」と思っていたが、口に出すことなく現在に至っている。
果菜類の育苗では接ぎ木苗が多かった。当時は、千葉県の篤農家が開発した「断根挿し接ぎ」が普及し始めた頃で、先輩研究員は、スイカ(台木はユウガオ)の生理・生態を活かした、極めて合理的な接ぎ木法だと評価していた。
この接ぎ木法で、キュウリ(台木:カボチャ)と露地ネットメロン(台木:カボチャ)の育苗を練習した時のこと、われながら納得の行く苗ができたことがあった。この様子を場長と先輩研究員が見ていたらしく、私はその年以降、主要な研究課題を担当することとなった。
普及員になると、個別の農業者の育苗施設で、接ぎ木のデモンストレーションをやる機会が多かった。
接ぎ木の中でも繊細な操作が必要な挿し接ぎは、台木への接ぎ木へらの挿し方がポイントになる。人によって癖があるから、自分に適した接ぎ木ヘラが必要だ。私はスプーンを加工したものを使っていた。大スプーンは、長い歴史の中で生活に定着した食器のため、実に手になじみやすく、また、ステンレス製のものは加工もしやすかった。なにより、台木への挿し込み作業は個性が出るため、砥石で角度などを微調整して使用していた。また、穂木の太さと穂木の種類によって対応できるように、数タイプを用意して使うことにしていた。「一生ものの、良い道具を作った」と自画自賛していたが、他の人に評価された記憶はない。
ところで、山形県の研究機関では例年、研究員や普及指導員が集まって、1月中下旬に試験成績検討会を開催している。
ある年、すっかり年配者になっていた私は会場をのぞいてみることにした。会場の研究員と普及員の大多数は、冷やかし半分で参加したのだろうと考えたに違いない。歓迎されないだろうとも思った。
会場では、研究員が試験結果を一生懸命説明していたが、それを聞きながら私は、次第にいらだちを覚えてくるのだった。若い研究員には「新人だからか、何もわかっていないような気がする。研究者本人が分からないことが、この研究の目的となっているように感じる。試験設計は理解しているのか? 上司は何をしている?」と考えたり、少し年長の研究員には「因果関係が薄い項目を無理やり統計処理している。連続していないデータを無理やり折れ線グラフにしていたな」などと突っ込みを入れたりしていた。そして、「昔は厳しかった。ハンドリング不足の研究員には、研究はさせなかった。想定できない場合は、予備試験からさせられた時代だった」と思い返すのだった。
「大学の研究者が10個のドットで回帰曲線を引くならば、こちらは50個でも100個でもドットを打つような圧倒的なボリュームで、回帰曲線を引く必要がないくらいの試験で勝負しろ」などが口癖だったのはA先輩研究員だった。
研究のとりまとめは徹底して絞られた。自信満々に記述した研究報告は、無残にも机に叩きつけられ、書き直しを命じられたこともあった。これは当時のY副場長の指導方針だった。今の時代に若手研究員にこんなことをすると、たちどころに「パワハラ」と言われるだろう。当時も理不尽な先輩の言動には疑問を感じていたが、職場の雰囲気が、抗うことを無言で拒んでいたように思う。
普及所にも、「普及方法には一家言ある」ことを自認する、とにかく熱い先輩がいた。その先輩の、途方もなく長い議論からどうすれば逃れられるかを考えていたような覚えもある。普段は紳士的な普及員なのに宴席では豹変するため、半径2m以上離れて着座するよう注意しなければならない先輩もいた。
職場の普及活動では訪問回数が数値目標になっていて、普及計画検討会では訪問回数が実績の一つとして、真面目に議論されていた時代のことである。足で稼ぐ普及活動という概念があったほどだ。その頃の自分は「考える普及」が理想で、「足で稼ぐ普及」などの昔のやり方を毛嫌いしていた。ボリュームで稼ぐ研究と同じ匂いがすると思っていた。
これらの反復によって、知らず知らずのうちに鍛えられていたのかもしれないが、当時は、謙虚な気持ちは露ほども持たない私であった。新人類(1980年代に社会人になった、画一的な行動をする世代をそう呼んでいた)と呼ばれた世代の直前の世代でもある。
●写真上から 農家の庭先にはラッパスイセンが咲いていることが多かった、同上、スプーンを加工して自作した接ぎ木へら
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。