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2020年9月29日
農業者NOW(その4)
若い頃、「普及事業は農業者や農業経営にとってプラスに作用し、少なくともマイナスになることは滅多にない。従って、原則、普及員が農業者から疎まれることはないはずだ」と先輩が話していたのを聞いたことがある。それでも、現実の普及活動の場面ではさまざまな人間関係が絡み合い、時には歓迎されていないと感じることもあったように記憶している(自分の勝手な思い込みかもしれないが)。
先輩普及員のMさんは、「普及員公害」というものを話題にしていた。産地の技術情報は、時が過ぎれば知れ渡る運命にあるが、普及員が介在することで、またたく間に(競合産地に)広がってしまう様子を表現したものだ。私は野菜が専門であったが、仲間の普及員ともども、情報発信については消極的な時期もあった。
そんな中、「情報は発信する所にのみ集まる。そういう時代になった」と話してきたのは、農業者Kさんだった。「情報はすぐに古くなる。そうでなくとも、農業技術は関係する条件が多岐にわたり、簡単に適合するものでもない。それでも、情報は発信することによって注目が集まるのではないか。注目されれば新しい情報を得るチャンスが広がる」と話を続けるのだった。
その後、私は随所で「情報はギブアンドテイク」と話してきたが、情報伝達のツールが増えるにつれ、普及サイドが発信する情報の比率が相対的に低下していくのを、身をもって感じるようになった。
平成になると、知的財産の問題がクローズアップされるようになり、農業分野でも、知的財産や特許問題に悩む農業者が出てくるようになった。今までどおりの情報活用(新品種導入なども)では、利用する側(導入する側)のモラルが、種苗法などの法律によって制限されていることを改めて知った農業者が多かったと思う。これらの業務に関わることになった時、種苗法はもとより関税定率法やUPOV条約(※1)を初めてひも解いた。前後して、農薬や肥料の問題など、普及活動を取り巻く情報の範囲が広がり始め、「普及は難しい」と思うようになった。
※1 UPOV条約:優れた品種の開発と流通を促すことで農業の発展に貢献することを目的として締結された条約。条約締結国が共通の基本的原則により新品種を保護することが前提
新規参入農業者やUターン農業者の情報入手はどうだったか・・・。
Uターン農業者のAさんは、家庭の事情による他産業からの親元就農だった。就農理由の主なものは、実家の働き手の病気や事故などの家庭の事情で、農家は承継されることが不文律のように存在していた時代のことである。
親がやっていた水稲をやめ、露地花き栽培を開始したAさんを初めて訪問したのは就農直後のことで、農業に対する考えや農業経営の具体的な目標を聞かせてもらった。露地花き経営が順調に推移していったAさんは、年下の先輩花き農家や地域での付き合いを無難にこなしていたが、情報収集(販路開拓も)については、積極的に活用していたのが驚きだった。
この様子を私は、「前職で社会人として活躍していたのだから、農業分野での活躍も当たり前だろう」と理解することにした。当時、Aさんのみならず、Uターン就農者は、農業経営がうまくいく比率が高かった。他産業での就業経験は農業分野のスキルに通じるものがあると、単純に考えていたと思う。
最近、新規参入した農業者と面談する機会があった。
彼らは他産業での就業経験があり、農業への志の中には他産業で培った経験があり、取り組む農業経営とはきっちりと向き合い、かなりの確率でうまく滑り出していた。話していると、順調に農業経営を実践している人は、コミュニケーション能力が非常に高いと感じた。若い頃に考えた、「Uターン農業者が成功する理由はコミュニケーション能力」を彷彿とさせた。
私の現在の職場(農業支援センター)で運営している農業短期体験プログラムや長期研修に対する彼らの評価は、概して低かった。正直落胆したが、1~2年間の長期研修は、長時間の拘束と昔の徒弟制度のような研修先農業者との人間関係に悩みながらも、研修で得られるものとを天秤にかけ、満了までがんばったと語っていた。忍耐と辛抱の期間で、技術研修というより精神修行だったと話す新規参入者もいた。しかし、研修制度そのものを否定しているのではなく、時代の変化に適合した長期研修にしてもらいたいという、前向きな提案だった。
面談では、普及事業と接点のある新規就農者の多くが普及指導員の技術指導やコーディネートに感謝し、その評価は高かった。面識のある普及指導員のYさん、Sさん、OBのSさんや、私の知らないHさんを紹介され、意外でもありうれしくもあった。発足から70年以上が経過しているが、普及指導員が現在の農業の中でも活躍できることは、間違いない。
現在の普及事業はおそらく、私の知るかなり前の普及事業ではなく、少し前の普及事業でもなさそうだ。発足当初からほぼ同じ名称ではあるが("普及員" "専門技術員"は、平成17年度に"普及指導員"に統一)、農業者や農業の変遷に合わせ、意図あるいは意識したものかどうかは分からないが、時間軸を大きくとれば、確実に変化していると整理することにした。しかし、具体的な因果関係については、整理できていない。
●写真上から 超砕土成型ロータリーの実演会、普及員の野菜育苗研修会
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。