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2020年8月28日
農業者NOW(その3)
優秀な農業経営者は条件不利地に居住する場合が多い、と感じていたことがあった。
農業に法人化の機運がまだ生じていなかった頃の話である。不利な条件を活かす、不利な条件を克服するなど、農業経営の目的は一様ではなかったが、キラリと光る農業経営を感じさせる、十分すぎる何かの魅力を備えていたと思う。
経営担当の普及員は、「条件不利地は生産力が低いことが多く、経営の選択肢が限られる」と言っていたが、条件不利地域であればこその危機感が彼らのモチベーションを高め、地域での数少ない成功例となっているのだった。地域の多くの農業者からは、「あの人は特別だから」と思われることが多く、追随しようとする農業者が少ないのも条件不利地ならではの特徴になっていた。
彼らは、「条件不利地の小さな複合経営や農閑期の出稼ぎ、他産業での季節労働で、自分の人生を終えるのは嫌だ」という話をしていたことがある。「一旗揚げる」とか「錦を飾る」と形容する農業者もいた。彼らは、家庭の事情で(泣く泣く)学卒後に就農することになったが、仮に他産業に従事しても特定の分野で成功していただろうと思わせ、能力の高さを垣間見ることができた。彼らはほとんど脱落することなく農業経営を長期間実践し、その多くは農業法人の代表者になっている。ただし、当初の農業経営と現在の経営内容は様変わりしているケースもある。
先輩普及員のSさんは、地域農業をパイに例えて、「中山間地域の農業の生産力を上げるのは厳しい。パイが大きくならないのだったら、限られた農業者で山分けすることになるだろう。農業の集団化や法人化は表現こそ美しいが、能力に応じ、または貢献度合いに応じて山分けするという事実は否定しがたい。表向きは誰も言わないが、便利なボランティア的役割を強調されると長続きしない事が多い」と、持論(自論)を展開するのだった。
「参加しない場合はどのように理解すればよいのか?」との私の質問には、「ケースバイケース。経済性や合理性では冷たい物言いになる」という解釈を続けるSさんだった。
園芸農家のKさんは、"売る自由・作る自由"を持論とする農業者だった。彼との会話では、何度も"自己責任"という言葉が出てきた。「農業者であっても、自分の希望する(再生産が可能な)価格で取引したい」と。農産物の取引にはいくつもの中間業者が介在し、それがあるが故に安定供給がなされていた時代のことだった。Kさんは、値決め販売と安定供給の経営を選択し、紆余曲折を経ながらも、自身の夢をかなえる経営が実践できた。
農作業のできばえと効率性をことのほか気にし、経営者としての働き方を意識しているという共通点が、彼らにはあった。しかし、農業経営の発展そのものが自身の幸福感につながっていたかどうかは、わからない。
(「この作物の草姿には宇宙的な広がりを感じる」と哲学的に表現していた農業者もいたが、現在の経営状況はわからない)
農業の法人化の流れができつつあった頃でも、昔ながらの産地育成の普及活動を行っていた。成功する人を何人育成できたかではなく、失敗しない人を少なくすることが普及の視点では重要だと考えたからだ。産地化の過程は、新たな農業経営の選択肢になるだろうし、中には、地域を代表するような農業経営に発展していく農業者も生まれるだろうと思っていた。
現地での最後の仕事となった新産地育成の普及活動では、失敗しない人を減らすため、技術的には無謀だと思えるような産地プランの提案を行った。アスパラガスの新産地育成前夜のことである。夜に開催した説明会で、50歳代のある夫婦は、「アスパラガスに今後の人生を賭ける価値はあるのか?」と質問してきた。私は困惑しながらも「10年は大丈夫だろう」と答えたのだった。(それから10年後、地域を代表する農業経営を実践していると聞き、無性にうれしくなった)
これまで行ってきた普及活動で、ともすれば先送りしていた部分を補った産地育成の課題解決は、当然のことながら効果的だった。それよりも、多くの普及員が経験するように、農業者が変化を求める機運の高まりを産地化プランでマッチングできたことが成功の要因だったのだろうと、自己評価している。
さて、ひとたび気象災害が発生すると、総合的な知識を有する普及組織の役割が増してくる。
最近の災害現場で、「過去に災害があった時、普及所の先生の指導は・・・だった」と、人づてに話を聞く機会があった。
かつて普及所では、行政からの指示が強い災害対応には、「普及事業は、災害調査などを担当する行政組織ではないのだが・・・」というような、ある種抵抗感を持っていた。私が若い頃は、普及所や普及員は行政施策とは一歩離れたところで普及事業を展開するという気構えを、随所で感じることができた。実際、災害対応の業務は、総合的な知見を有する普及員の得意分野だったし、独壇場だと思っていた。農業関係機関や団体の技術職員の絶対数が不足する現在では、普及員の存在意義は高くならざるを得ないとも思う。そういう意味では、普及事業は地域政策に近いのかもしれない。本来は、産業政策に貢献できるような普及活動が求められているのかもしれないが。
私の現在の職場では、農業経営相談所として、士業や特定のスキルを有する専門家を農業者に派遣する事業を行っている。農業者との面談には、管轄する普及指導員や当センターの職員が同行しているが、個人的に、専門家の対面指導には不満を抱くことが多い。販売プランの策定支援や生産原価やキャッシュフローの相談など、普及員の視点からは、それらの対応は物足りないように感じる。そんな時はいつも、普及員は農業に対する総合力が高いからだと分析するのだった。普及事業と類似の組織はいつの時代も存在しているが、普及(普及員)は、農業者や時代のニーズに合わせて(普及組織が考えている以上に)変化していると感じるからでもある。
●写真上から 焼き畑による藤沢かぶ(伝統野菜)の栽培、カボチャの立ち栽培、カボチャの幼果
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。