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ときとき普及【25】

2020年7月28日

農業者NOW(その2)


やまがた農業支援センター 阿部 清   


 私は中山間の農業集落で生まれ育った。学生時代や就職後の一時期、県外や県内の市部で暮らしたことはあるが、いまも同じ集落に住んでいる。
 集落の農家は稲作中心の小農がほとんどで、農閑期は山仕事で生計を立てていた時代があったという、県内ではどこにでもある山里だ。水利が難しかった最上川中流地域地域は、水田以外の選択が必要になり、時代のうつり変わりとともに落葉果樹地帯として発展するが、雪深いわが地域に果樹は定着しなかった。


column_abe25_1.jpg イギリス人旅行家イザベラ・バードが明治初期(明治11年頃)に日本各地を紀行し、後年に出版した『日本奥地紀行』によれば、当地域は"人情味あふれる農村"として、好意的に記述されている。県内には、この旅行家によって"東洋のアルカディア"と称された地域があり、豊かで気高い田園風景を表現したものと理解されている。個人的には、立体的な農業をイメージできる果樹地帯(明治初期は果樹が少なかったが)とイメージを重ね合わせている。

 私の住む地域は"ロマンチックな雰囲気の場所"と表現され、山の頂まで杉が植林された光景や住人の穏やかな人柄をイメージしたものと言われている。明治初期におけるひと握りの地主に多くの小作農という関係は理解していなかったと思うが、管理の行き届いた田畑の美しさを讃えたものらしい。O生花会社のI社長が話していた「欧州の自然管理の理念」と相通じるのではないかと、勝手に想像している。また、『紀行』以降の100年間、当地域の農林業は、ほぼ変化していないと言うこともできそうだ。


 20年ほど前のこと、当地域のことを「周回遅れのトップランナー」と表現し、プライドを持って山里で生活することの大切さを地域住民に問いかけ続けたリーダーがいた。多くの住民が、いまも尊敬してやまない故K先生だ。山里での暮らしには必要不可欠なモチベーションだと共感したものだった。

 春の山菜のシーズンは山に入ることが多くなる。尾根づたいに眺めた青く重厚な杉山と萌黄色の雑木山のコントラストは、実に見事な風景だ。里山の登り口付近の杉林で目を凝らすと、かすかに田の形が残る場所がある。こんな所までも開田した住民のことを想うと、山里で暮らすことの覚悟のほどを否応なしに感じる。昔からの山里の営みを実感できる瞬間でもある。

 かつて食糧増産を旗印に、山へ山へと耕地(水田)を拡大した時代があった。昭和46年を境に開田は抑制され、現在は人口減少を理由に山から里へと耕地が後退してきている。それは人知れず進行し、自然災害があるたびに加速しているようだ。最近面談したY町の町長は、「山間部の農地は権利関係が世代を重ねて複雑に絡み合い、調整が一層複雑になっていて、農地の再利用がままならない。これが課題だ」と話していた。


column_abe25_2.jpg M町のS山間集落を対象に、総合指導という普及活動を行ったことがあった。

 居住するS指導農業士は、集落の行く末は一つしかないと結論付け、何度も集落座談会をおこなった。最近でいうところのワークショップになるのだが、集落農業の方向性について議論する、格好の機会だったと思う。S指導農業士は、「縁戚にこだわらず、できれば集落の若い世代に今後の農業を委ねたい。集落に担い手がいなかったら他集落でもかまわない」という考えだったと思う。数年後にH農場と称する新営農組織が結成され、MRC(ミニライスセンター)の建設や農地の集積を進める母体ができた。S指導農業士は新組織の設立に尽力するも、経営には参加しなかった。「次世代の集落の農業は若い世代に委ねるべき」との持論によるものだったのだ。


 その頃、S指導農業士に誘われて、原木ナメコの収穫に連れて行ってもらったことがある。原木ナメコの発生場は、ひと山超えた所まで歩かなければならなかった。


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「S集落は山に囲まれている。ここの農地を管理できなければ集落はなくなってしまう。集落関係者が担えればベストなのだが、担い手が少ない現状では贅沢になるかな」(道すがら話すS指導農業士)
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「S集落は民有林が少なく、裏山から国有林という、地域ではめずらしい集落ですね」(私)
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「山の維持が大変で、戦後はこぞって国に移管したと聞いている。冬季には山仕事で生計を維持していたから、誰が持ち主でも関係なかったのかもしれない。水稲+(時々)山仕事の複合経営になるかな」(S指導農業士)
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column_abe25_3.jpg 将来の所得確保について質問すると、S指導農業士は、「これからの担い手には申し訳ないが、所得よりも地域の農地管理が優先している。所得は後からついて来ると信じたい」とのことだった。


 ほどなくナメコの原木置き場に到着した。林間に無造作に置かれた原木から発生するナメコは黄金色に浮かび上がって周辺を彩り、息をのむような美しさだった。地区の農業者にとっては日常のことで気づいていないかもしれないが、手入れの行き届いた林間のナメコ園は、ワラビ園以上に価値のある観光資源なのだということを実感したのだった。


 最近、H農場を訪問したことがあった。担っている農地は1,000筆以上になり、水田転作関係の営農計画の書類を重ねると数cmの厚さになること、高収益作物を計画的に導入していること、また、法人の理事が世代交代していることなどの話を聞いた。
 山間地域の未整備田を担うことなど、半端な覚悟ではできないことだ。S指導農業士の想いが、次世代に確かに伝わっていた。管理の行き届いた山里の田畑はやはり美しく、威厳さえ感じるのだった。

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

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