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ときとき普及【22】

2020年4月28日

普及の日常(その2)


やまがた農業支援センター 阿部 清   


 普及員の移動手段は昔も今も公用車。若い普及員時代は、一日に200kmを移動することがあった。それだけ管内が広域だったこともある。職員同士でタクシードライバー並みだと慰めあったこともあるぐらいだ。その公用車にまつわる思い出がある。


column_abe22_1.jpg T先輩普及員は、砂利敷きの農道を高速で通過し、カーブではドリフトしながらターンする運転自慢だった。たまたま助手席に同乗していた私は身構え、生きた心地がしなかった。それでも、農道走行で鍛えた運転技術は納得のものだった。その後、T先輩が、工事現場を通過する際に仮設の厚手の鉄板を跳ね上げて、公用車の車台に思いっきり食い込ませてクラッシュさせたとの話を聞いたが、特段驚きはしなかった。私も、管内の農道はすべて覚えていることを自慢していたが、移動時間の短縮程度しか普及活動には貢献してはいなかった。


 公用車は毎日のように現地に出かけ、夕方には決まって車庫に戻ってくるのが普通だと思っていた。
 ある県に視察に出かけ、何の気なしに公用車についてたずねてみたところ、一週間以上も戻ってこない公用車があるとの説明に驚いた。役場や農協の駐車場に置いているとのことだった。食糧増産時代は、給料日以外は職場に戻らない豪傑の普及員がいたとの話を聞いたことがあるが、勤務管理が厳しくなった時代にあって、普及員個人の判断が優先されているようでうらやましかった。

 この頃のS普及所での夕方の出来事であるが、見慣れない人物が公用車を運転して戻って来たことがあった。続いて、運転代行社の車両が追走していた。公用車と運転代行の組み合わせは滅多に見ることのできない光景だったと思う。
 その後、飲食に関しては制限が出はじめ、関係の持ち方に疑いを持つことはなくなってしまって久しくなるが、理屈抜きで懐かしいと思う年代になってしまった。あの頃は、農業者だけでなく営農指導員や役場の担当者も、地域農業に対する確固たる志を持っていた人達が多かったと思う。


column_abe22_2.jpg 県に採用されて間もない頃に勤務したO普及所でのこと。その日は、高冷地の実証圃の調査日だった。目的の調査を終えて帰路についたが、運悪く公用車は、雨上がりの沢のぬかるみに車輪を取られて、動けなくなってしまった。車外に出て状況を確認すると、「石の上に置いた亀の子」状態になっていることがわかった。夕暮れが迫る山間の現地のことで、農業者に応援を頼むのは難しく、途方に暮れた経験がある。携帯電話がなかった時代のことだ。車内を見回すと、果樹担当普及員の置き忘れたのこぎりが目についた。夢中で雑木を勝手に何本も伐採し、ジャッキアップして敷き詰め、やっとのことで脱出することができたのだった。


 公用車についての思い出はいくつもあるが、特筆すべき出来事がある。
 真冬のある日、S生活改良普及員から依頼され、山間集落の婦人グループの講習会へ出かけたことがあった。S生活改良普及員が同行するのかと思えば、出張するのは私一人で、O村の保健婦(当時の名称)は現地で待っているとのことだった。

 勤務していた普及所管内は雪深い地域の中で、目的地はとりわけ豪雪で名高い地域だった。運転していた当時の公用車はFR車(後輪駆動車)で、雪道ではスパイクタイヤ(スタッドレスタイヤの前世代の冬用タイヤ)を着用していたが、目的地近くのトンネル前の坂道でスリップして登れなかった。そこで、後輪にチェーンを装着し、バックで登坂した経験がある。FR車もバックで進めばFF車(前輪駆動車)になると、面白おかしく後輩普及員に語ったことがあるが、スパイクタイヤのことはネットで検索しないと知らない年代のためか、彼らは作り話か、もしくは誇張した話として聞いていたと思う。

 トンネルを超えると、除雪面が3m以上の高さになる一車線道路の光景(春の開通がニュースになる黒部立山アルペンルートなどのイメージ)が広がっていた。ようやく到着した公民館では、健康づくり講座が開かれ、研修の前段として、家庭菜園(当時は自給農園と呼んでいたと思う)の講師を務めた。地区女性のリアクションがほとんどなく、努力はしたが、盛り上がらないのが手に取るように分かった。後段の保健婦の話は、婦人科検診のすすめだったが、検診の話すら盛り上げる、あまりにも巧みな話術の前に、尊敬の念すらおぼえて帰路についたのだった。


column_abe22_3.jpg ある日、県庁の普及事業主管課長との職員組合交渉に参加し、多雪地域の冬の業務など、先ほどの苦労談を引き合いに出し、四輪駆動車は普及活動に必要だと力説したことがあった。四輪駆動車は翌年に各普及所に配置されるようになるが、その年度には普及係長に異動し、予算を執行する立場になった。「四駆なんて単価が高くぜいたくだ」とつぶやいていたら、隣で話を聞いていた課長が「それは、お前のせいだ」と皮肉を込めるのだった。


 当時の公用車は、山形県の場合、○○農業改良普及所(センター)の名入りで、ルーフキャリアと外部スピーカーが標準装備だった。ルーフキャリアには「農作業安全」とか「適期刈り取り促進」などの看板を装着していた。シーズンになればスピーカーで広報活動をおこなっていたが、日中の圃場から農業者がいなくなって久しく、効果は疑問だと考えたことが多かった。どの県でも普及所(センター)の名入りが普通だと思っていたら、都道府県名の場合や無記名の場合もあったのには驚いた。

 普及所の名入りは、先輩方の普及事業に対する思いがこもっていたことを初めて知った。県の財政当局には、協同農業負担金(交付金)を財源にしたものだから、普及所の名前が必須だとの説明を行っていたのだった。それだけ、常に農業者(住民)と対面する普及員は税務職員やケースワーカーに例えられるように、特殊な業務なのだろうと考えた。


●写真上から アサツキ(水田畦畔での自生)、タネツケバナ、ヒメオドリコソウ

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

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