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ときとき普及【21】

2020年3月27日

普及の日常(その1)


やまがた農業支援センター 阿部 清   


 普及員だった義父から聞いた、戦後の食糧増産時代の普及の一コマ。

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 「水苗代から保温折衷苗代になると、寒冷地の稲作は確かに安定してきた。その苗代の後地はズキイモを栽培することが多かった。食糧増産なので、米を作れと講習会で呼びかけ、了承を得たはずなのに、後日、巡回に行くとズキイモが作られていた。ほとんどは自家消費だった」(義父)
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column_abe21_1.jpg ズキイモはズイキの仲間の野菜で、山形ではカラドリの名が一般的。かつて、「山形田イモ」として技術書に紹介されたことがあった。名前のとおり、葉柄を生や乾燥で調理することが多い。芋はサトイモに比較して粉質で、親芋でも、きめが細かいのが特徴となっている。この地域ではズキイモが本当に好きなのだということが水苗代の後作にズキイモを作り続けるに至った理由だと、義父は話していた。


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 「国鉄(現JR)の駅近くには米倉庫が設置され、米検査が終了したものから消費地に輸送されていた。一部は、政府米保管倉庫として委託され、倉庫料が農協の重要な収益源になっていた。ついでに、普及所の事務室は倉庫に併設されたものが多かった」(義父)  
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「農村では、水利さえあれば山まで開田したほど、昭和40年代までは米の経済価値は高かった。自作地の水田が2、3町歩あれば、家族を養い、子を教育し、さらに農作業に励めば左うちわだった」(義父)
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 高齢の農業者からは、汗水をかくことが農作業の神髄であると固く信じられていて、それは労働の本質的なものとして尊敬されていたという。同時に、汗をかかない(物理的な表現)サラリーマンは「月給とり」として、必ずしも尊敬されたものではないニュアンスで語られていたとも。苦労して小作農から自作農になったプライドのなせる表現だったらしい。同じ時代を生きれば美談、しかし、その時代を経験していない自分から見れば「・・・」である。
 サラリーマンの初任給については、団塊の世代の旧知の農業者Kさんからも、就農当時の話として聞いたことがある。


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「高卒で就農した時、友人の初任給で買えた米は2、3俵。それだけ米の経済価値は高かった。自分は後継者として泣く泣く就農したけれど、中山間の農業は相変わらずで、生活は厳しい」(農業者Kさん)
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「周年で出稼ぎに行くわが町の農業者は約100名。彼らが家族に仕送りする年間の金額は、町の生産農業所得より多いという現実には落ち込んでしまう。収益性の高い作物を作らないと、町の農業の前途は険しい。作る自由、売る自由と言われるけれど、自分は、いつかは高く売ることをめざして農業生産を考えたい」(農業者Kさん)
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column_abe21_2.jpg 1960年代後半から70年代前半にかけて、米の経済価値が相対的に低下し、政府米の買入価格の決定に際し、米価闘争と呼ばれる農民運動が熾烈を極めたという話は、ずっと後で知るところとなる。俵、麻袋、紙袋と、米の包装が変化するのに合わせて、農村の変遷を振り返ることができるとの義父の話でもあった。


 当時、私は中高生だった。学生運動は終盤で、第一次オイルショック、浅間山荘事件や国労の順法闘争(ストライキの一種)などをニュースで知っていたが、それは遠い国の出来事のように感じていた。やや尖がった高校生と自負していた友人から無理やり誘われ、夏休みに土木作業のアルバイトで稼いだ虎の子を手に、地元の映画館に通ったことがあった。意気込んで出かけていっても、上映されていた年落ちのニューシネマ「卒業」、「明日に向かって撃て」や「いちご白書」などのスクリーンの字幕を追いかけるのが精いっぱいだった。ノンポリといわないまでも日和見っぽく、少し理屈っぽい、あの時代の普通の高校生活を送った。


 農村では、農閑期には出稼ぎに行く農業者が多かったという経済的な現実があった。それでも、小農だけれども精神面での生活は安定しているという考えが普通だったと思う。また、農協運動が最も華やかな時代だったとも感じていた。いま考えれば、農協運動の基本理念が最も体現された時代だったのかもしれない。全国で展開された農協の「ゆりかごから墓場まで」のキャッチコピーは、高校生だった私でさえも鮮明に覚えている。 


 普及員になったのは1978年であるが、この頃もまだ、農作物といえば水稲が圧倒的な地位を占めていた。
 山形県で米以外に最初に換金作物として頭角を現したのは果樹だった。


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「水稲と果樹の専門担当以外の普及員はいらないと言われたことがあったなあ」(野菜担当のF先輩普及員の嘆き)
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「その地域は酪農、繁殖牛や肥育牛が盛んなところだけれど、畜産担当は? 野菜担当普及員や生活改良普及員はどうなのだろう?」(私)
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「畜産は耕種の農業ではないから、地域の農業者の視点が違うのだと思った方が良い。野菜担当や生活改良普及員は、まあ、隙間だな」(F先輩普及員)
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 私は野菜専門の普及員の道を歩むことになっており、少しばかり選択を誤ったかとも思った。しかし、野菜生産の将来を考えたとき、山形県ではまだ線が細いが、これ以上、その線が細くなることはないだろうと自分を慰めた。

 農業、農村を説明する際には、米は欠くことができない農作物だと実感することが多かった。野菜の育苗講習会では、「水稲の育苗が上手な人はスムーズに野菜を導入できる」と説明し、稲作の青田指導を意識して、「稲作のように野菜でも追肥の成分量1kgが大切だ」」と、稲作ネタを使った普及活動は、農業者の受けが妙に良かったことを覚えている。
 この頃はまだ、県職員の後半に野菜が専門の普及員である自分が米政策や稲作振興も担当することになるとは、夢にも思っていなかった。


●写真はネマガリダケの圃場全景(上)と萌芽のようす(下)

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

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