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ときとき普及【20】

2020年2月27日

昔の普及所(番外編)


やまがた農業支援センター 阿部 清   


 ある農家の居間で、加工用ダイコンの生産計画の相談にのっていると、耳元で怪しい吐息とともに、肩を触られる気配がした。何気なく後ろを振り返ると、秋田犬の顔がそばにあった。当時は、室内犬が珍しかった時代で、中型の秋田犬が室内にいることに驚いた。

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「大丈夫ですか。噛みついたりしませんか?」(後ずさりする私)
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「ドッグスクールに行ったから、多分大丈夫だ」(農業者)
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 大丈夫と言われても心配な私は、即座に、先輩のアドバイスを思い出すのだった。
 「普及員の心得として、農家を訪ねたらワンコをけなしてはいけない。何かしら良いところを見つけ出し、ほめるところから農家との良好な関係が始まる」(M普及員)


 その頃、ほとんどのワンコは玄関先で飼育されていて、農家を訪問した私は、かなりの高い比率で吠えられた。農家だからリードが驚くほど長くなっていたし、知らない人を吠えるのはワンコの仕事だからと納得しつつも、ほめ方は本当に難しいと思った。しかし、キャンキャンと吠える可愛げのないワンコだと思っても、「元気がある」とか「仕事を頑張っている」とほめると、家人はまんざらでもない様子だった。


column_abe20_4.jpg ニャンコは、今でこそ内猫として飼育されることが一般的だが、当時は家猫が外猫として飼われているのが普通で、首輪を付けていないニャンコが多かった。天気の良い日には、陽だまりで箱すわりしている様子を目にすることが多く、吠えないのでほめやすかったが、家人のうれしそうな顔と出くわすことはなかった。ワンコは人に付き、ニャンコは家に付くと聞いていたので、その違いなのだと理解することにした。


 そういえば、私の生まれ育った地域では、「ジョン」と呼ばれるワンコがやたらと多かった記憶がある。また、ニャンコは「チャコ」と総称されていた。たまに「タマ」とか「ミケ」という名前がついていることがあったが、「あのチャコ(方言が強いとチャッコ)はミケという」というように呼んでいた覚えがある。かつて流行った楽曲、「チャコの海岸物語」を初めて聞いた時、真っ先にニャンコが思い浮かび、不思議でおかしな感覚に陥ったのは私だけかもしれないが・・・。


 ニャンコというと、結婚して初めて買い求めたのは招き猫の貯金箱で、尺5寸の大きなものだった。招き猫の収集が趣味になってからわかったことであるが、買い求めた招き猫は常滑(愛知県)のものだった。元々、東北には土人形の産地が多く、中でも、堤(宮城県)、相良(山形県)、花巻(岩手県)が招き猫の三大土人形とされていたという。土鈴の産地でも招き猫が数多くあった。全国の陶磁器産地では招き猫が制作されていて、それを目当てに旅行もした。創作招き猫作家のことなど・・・・いつの間にか、収集の範囲が広がっていくのだった。出張先で、御当地の招き猫を収集するのが密かな楽しみにしていた。


column_abe20_1.jpg  column_abe20_2.jpg
堤(左)と相良(右)の招き猫


 訪問する農家でも招き猫が飾られていることがあり、そのほとんどが常滑で、シェアの高さに驚いた。まれに谷中(東京都)や瀬戸(岐阜県)などのニッチな招き猫を見かけることがあった。飲食店には、九谷(石川県)や伊万里(佐賀県)の招き猫が置かれていることがあり、その経緯について、を勝手な想像をふくらませるのだった。


 私も相当に個性的な普及員だったが、県庁にも個性的な人物が多かった。
 職場には、同じ単身赴任の先輩方がいて、「単身赴任友の会」に加入させてもらったことがある。時代はバブル経済の最後の頃になるけれど、山形のような地方都市にも、その気配が十分に押し寄せてきていた。市内のビアホールでは、当時流行していたランバダのショーが開催されるとのことで、土壌肥料担当のW専門技術員を先頭に、研修教育担当のM係長など、友の会のコアメンバーで出かけたことがあった。しかし、直前に歌謡ショーに変更になっていた。実直が評判のW専門技術員が開口一番に「歌謡ショーを聴くためにビアホールに出かけたのではない」と言ったのには驚いた。
 この頃、山形市にはコンビニがなく、夕方になると、今日は何を食べようか思案するのが日課だったと覚えている。県庁勤めが初体験の私にとって、M教育研修係長の心づかいが身に染みた年だった。


 さらに、個性的な専門技術員もいた。野菜担当のO専門技術員に、勤務時間後の打ち合わせを申し込むと、無理だという。同僚の専門技術員は、「彼女は、この曜日の夕方になると、アニメソングが頭の中に渦巻いて仕事にならないらしい。ミラクルロマンス(ムーンライト伝説)って知っているか?」と、私になぞかけするのだった。この話を聞いた私は、日常とのギャップに驚いたものだった。O専門技術員は、その後、何事もなかったのように打ち合わせに参加するのだった。


 県職員に新規採用された頃、職員研修で「プラスαの魅力を持つ職員になるべき」との講話を受けたことがあった。元々、特別な趣味や活動をやってこない自分としては、主旨を勝手に改ざんして、プラスαは持てたとしても、魅力を持ち合わせることなどできそうもなく、聞き流すことにしてしまって現在に至っている。

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

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