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2020年1月29日
昔の普及所(その3)
平成になると、県庁に異動になった。
普及指導計画(普及計画)の進行計画(PDCAサイクル)は、普及担当のS専門技術員の十八番だった。当時の普及計画は、綿密な背景分析を行い、到達目標という成果指標まで用意されていた。(その後、到達度、外部評価、顧客満足度などのほか、アウトプットやアウトカム、現在のKPI、KGIのようなビジネス用語が使用されることになるが・・・・)
農業、農村には、まだまだ目的意識を共有できる下地が色濃く残っていて、相対的ではあるが、普及計画が洗練されていた時代だったと思う。プロジェクトチームによる普及活動が多く、「役割分担」と「連携」が、合言葉のように文章を飾っていた。それでも、普及活動計画が県の他部署に理解されていたかといえば、必ずしもそうではなかったのが事実であった。
県庁に勤務しながら、「今度、農業改良普及センター勤務になったら、普及計画をもう少し掘り下げてみたい」と思っていた。前職場の普及員の時から、誰のための普及計画なのかという疑問があったからだ。
農業改良普及センターは、地域の状況をよく理解していると思う。常に現場(現地)にいればこそであり、これは、昔も今も変わらないと思う。疑問に感じていたのは「なす術」の少なさだ。普及計画を戦略に例えるなら、戦術に疑問を感じていたのだった。平たく言えば、誰がそれを担うのかということだ。普及計画は上手にまとめられてはいる。しかし、戦略と戦術は相互に時点修正していくべき関係にあるはずなのに、残念なことに「なす術」が思いつかない普及計画が多かったと思う。
同時に、農業関係機関、団体との連携も然りで、連携ほど儚いものはないとも感じていたのだ。濃淡に関係なく「連携」という言葉を使うからでもあるのだが、極端な場合は、そこに関係機関、団体があるだけで連携をさす場合もあった。
以下は、異動先の普及センターでのI課長との会話だ。
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「普及計画を補強する理由で、計画編、技術編、投資編の3つの普及計画を独自に作りたいと考えていますが、大丈夫でしょうか?」(私)
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「補強というけれど、策定エリアが管内全域だから、行政の振興計画と重複してしまう。普及センターが主体となって策定する意義を考えないといけないかもしれない。初めてのケースになるけれど、やる意味はありそうだ。所長に相談してみよう。当然、職員だけでやるのだね?」(無理な相談にとまどっているI課長)
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「技術編は、時点修正できるようにしてくれたらいい。もし、印刷製本できる予算があれば、完成品は関係機関、団体に提供したい。普及計画は外部の意見を取り入れる方式になっているが、もともとは内部資料だ。今回は、地域の農業振興に対して、普及組織の意思表示になるかもしれない」(I課長)
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「関係機関、団体との連携については、現在、管内にある10農協の生産組織部門をとりまとめて、作物ごとの広域組織を作る計画があります。研修会や講習会の回数をかなり少なくすることが可能ではないかと考えています。現時点でも、生産者同士は農協の範囲を越えた横のつながりが存在しています。単位農協の営農指導員に事務局を分担してもらう計画です。農協の営農指導員が担うのが自然だと考えます」(私)
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「販売が農協単位だから難しいが、やってみる価値はありそうだね。組織化は普及が主導するのか?」(I課長)
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「農業改良普及推進協議会(※)の業務として取り組むことにしました。各農協は販売を行っているので、やりにくいそうです」(私)
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普及計画3部作は苦労しながらも、短期間で印刷・製本することができた。
あの頃、まだ若手だった普及員のTさん、Kさんなどに苦労してもらった。「進捗が遅い」と、圧力をかけたこともあったかもしれない。単なる連携、共有というものに常々疑いを持っていて、同一の業務をこなす経験こそが、情報の共有化にとって大切だと感じていたからだ。それは、成功体験、失敗体験を共有するということであった。ただし、TさんやKさん達が、どのように感じていたかはわからない。
この業務を短期間でこなせたのは、PCのなせる業だと思う。事務機器が進歩し、個々の普及員に頼る比率は低下しつつある時代にもなっていた。この業務を進めていくにつれ、普及員のスキルの向上は、職員間の情報の共有化と切っても切れない関係にあるのではないかと感じるようになった。新規採用職員時代のA普及専門技術員のアドバイス、「自分達の得意分野で勝負したらどうか」に対する答ではないかと思った。
生産組織の広域化は、難産の末に組織化することができた。当時の営農指導員はほとんど退職してしまったが、あれから20数年経過した今でも、組織は機能しているという。この地域は、山形県を代表する園芸産地になり、多くの農業法人が活躍している。現在の営農指導員や普及指導員には、あの頃の志が受け継がれているのだと、勝手に信じ込んでいる。
※ 農業改良普及推進協議会:普及活動を円滑に推進するために組織化された、管内の市町村や農協等で組織する任意の組織
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。