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ときとき普及【18】

2019年12月27日

昔の普及所(その2)


やまがた農業支援センター 阿部 清   


 普及所にPCが導入されるようになったのは昭和60年以降だった。ワープロもこの時期だったと覚えている。苦労して作成したB5版(当時の用紙はB版だった)の表をプリントアウトする時間が昼食時間と同じという、今の時代ではウソのような話だ。PCといえば、メディアが8インチの団扇のような大きさのフロッピーディスクだったし、遅れて5インチ、3.5インチになった。農村地域データを活用して普及指導計画を策定しなさい、との県庁の指導もあったが、実際の普及指導に役立つことはなかったと記憶している。ただし、線形計画による経営試算には活用できた。


column_abe18_2.jpg この時代になると、勘と経験による普及活動は難しくなってきたが、それでも、現在の産地や地域を判断する際の、ベースとなるべき自身の経験と知識のレベルを上げる努力が大切だった。これには、いつも悩みがついて回った。

 前勤務地の時、アールスメロンのハウス抑制栽培を題材にした雑誌記事の原稿に対して、園芸試験場のM場長から指摘された言葉を思い出す。


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「今年のアールスの抑制栽培は、たしかに、高温が続いたために作りにくかったと思う。それでも、次年度の対策は何かあるだろう。すべて天候の影響にするのはよくないのではないか」(M場長)
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「原稿を記述する前段で、産地や普及所の担当に確認しましたが、ほとんどが高温多湿を要因にしていました。対応策を考えてみても仮定の話で、現時点では現実的ではないと考えました。また、この原稿は、部長や副場長の了解を得ています」(私)
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「私が言いたいのは、そういうことではない。産地全体ができなかったのではなく、人によっては、変わらず6玉、5玉の良品を作っているのだろう。そういう高いレベルをベースにして記述しないといけない。自分の技術レベルに合わせた評価を行っていると思えて仕方がなかった」(M場長)
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「・・・・・・・」(理解できない私)
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「わかっていないと思うが、生育環境を可能な限り制御するのが施設園芸の核心だろう。簡易施設であったとしても、天候のせいにしてしまう安易な考え方は、実に情けない。原稿を読んでいると、知識が不足しているのを天候に置き換えていると思えて仕方がなかった。だから、この原稿は書き直してもらうことにする」
「研究員は、少なくとも10年先を考えて来作を論じないといけない。現場対応が必要な側面が強い普及員は、5年先かな。これは、技術者として必要な心構えだと思っている。もちろん技術的な側面が中心になるが、逆にいえば、このぐらいの見識を持たないと、技術者として尊敬されないぞ」(M場長)


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 このアドバイスは衝撃的だった。県職員を退職するまで問題意識として持ち続けることになるとは、夢にも思わなかった。

 ともあれ、その後の普及活動では、自分に知識がないから産地も同様に課題になっているとか、技術的には難しいとかの言い訳は、極力しないように心がけた。しかし、展望だけで、時には具体的な課題を説明できないことも多かった。こんな私を妻は、一般論を振り回す評論家っぽいと揶揄することがあった。


column_abe18_1.jpg ずっと後になってからのことだが、後輩のSさんやOさんが、施設トマトの生育状況を説明する際に好んで使う『着果負担』に対して、「施設園芸を否定するような表現は、個人的に好きではない」と話をしたことがあった。両人とも、かつてM場長から指摘された時の私と同じような、怪訝な顔をするのだった。たぶん、私が何を話しているのか理解していないからなのだろうと思った。「トマトの花序は無限花序なのだから・・・」の部分を省略し、さらに、そこに至るまで対策を行っていないということは、施設園芸をしていないことと同義だという話をしなかったので、無理はない。


 さて、普及の現場から方眼紙と消しゴムが片隅に追いやられるようになるのは、それからすぐのことだった。平成に入ると普及資料や技術資料は、ほとんどがワープロソフトによって作成されたものに置き換えられるようになった。同時に、表計算ソフトで統計処理が便利にできるようになった。現地での記録手段は相変わらずフイルムカメラであったが、ビデオカメラも使用でき、普及用のPRビデオの編集が人気だった。現地に行くたびに理由もなくビデオカメラを携帯し、農家から顰蹙を買っている先輩もいて、私は普及員としての信頼感がないとダメだと、妙に納得したこともあった。


 先輩普及員の中には、急激に変化する事務機器に対応が難しい人もいたが、普及所内では片隅でひっそりしていても、現地では別人のように生き生きしていた。この頃の農業者と普及員の関係は、普及事業発足当初の王道が十分に通用するのだと感じていた。通信手段は電話、郵便がほとんどで、一部ではファックスも使用されるようになった。普及員によってはポケベルを所持している場合もあった。通信エリアが限られていたが、業務用無線を設置している県の他部署があり、理由もなくうらやましかったことを憶えている。
 最近、通信手段が大きく変化している。メール網、SNS、画像、動画など・・・、現在でも駆使されている通信手段の行く末がわからない。同時に、AIや5Gが本格的に運用されるようになる近未来の普及事業を、想像すらできない年代になりつつある。


●写真は山形県を代表する促成山菜のヒメウコギ(上)とコシアブラ(下)

あべ きよし

昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。

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