MENU
2025年
2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
2019年
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年
2007年
2019年11月28日
昔の普及所(その1)
県職員になって最初に配属されたのは普及所(現:技術普及課)だった。
当時の普及所には、普及事業発足当時が垣間見えるようなものがまだ残っていた。
事務室では、和文タイプライターのほか、謄写版(ガリ版)、コピー機(もちろん青焼き機のこと)や輪転機(針で原紙を転写する昔のタイプ)が備品であった。まるで活字のようにガリ版を使いこなす先輩普及員もいた。その資料の出来ばえには驚嘆の連続だった。輪転機を好む先輩も多く、方眼紙に鉛筆で書き込んだ資料は、本当に個性的だと感じたものだった。配属されて最初にやった仕事は、先輩普及員の講習会資料の青焼きだった。40年を経過した今でも鮮明に覚えていて、定着液(?)に含まれていたアンモニア臭が懐かしい。
車庫には、何年も使われていないと思しき緑の自転車があった。
------------------------
「緑の自転車を知っているか?」(親の世代の普及員)
------------------------
「わかりません」(私)
------------------------
「地下足袋に脚絆を巻いて緑の自転車に乗り、現地に赴く・・・こんな話をしても理解できないか。普及員のかつての移動手段は『緑の自転車』だった。話が盛り上がり、農家の家に泊まりこんだこともあったな。間もなくバイクになったが、普及のやり方は同じだった」
「今の移動手段は自動車だ。自転車の時代は、広域普及所の広域普及活動の概念はなかった。当時は市町村ごと、また、近隣の市町村を管轄する普及所がたくさんあったわけだ。支所もあったな。果樹担当の普及員は、全員ではないが、剪定の時期になると給料日以外は普及所に立ち寄らない豪傑もいた。この話、わかるかな?」(親の世代の普及員)
------------------------
「まったく、想像もつきません」(私)
------------------------
「若いということもあるが、面白くないやつだな・・・・」(親の世代の普及員の心中を代弁)
------------------------
普及職員の新任者研修では、現在の普及・これからの普及に主眼を置いていて、普及の歴史などの研修は一切なかった。普及方法の担当講師のA主任専門技術員からは、「勘と経験で先輩普及員に勝るわけはなく、あなた達は先輩が太刀打ちできない、新しい分野や手法に活路を見出しなさい」というような秘策(?)を授かったのだった。「ただし、先輩方のマンツーマンのやり方を頭から毛嫌いするのではなく、受け入れることが大切だ」というような研修を受けた覚えがある。
A主任専門技術員が伝えたかった新しい分野や手法は、新任者ごときが簡単に理解できるはずはない。その真意を実感し、ケーススタディとして職場で活用できるようになるのは、何年も経過してからだった。
職員(普及員)は、現地(普及では現場とは呼ばず、現地と呼んでいた)に出かけるのが日常だった。しかし、月1回の所内会議(全職員の会議)の日は、ほとんどの職員が所内に在席(内勤)していた。この日は給料日でもあった(当時は現金支給)。
所内会議での職員の迫力ある発言は驚きの連続で、発言を受けて立つ所長や次長も大変だと感じたものだった。議論は延々と続くことがあり、わけの分からない私には、堂々巡りのように思えた。
当時の普及所は、独立した普及員が集合したような組織だった。農業者や営農指導員からは、「普及所の○○さん」ではなく、個人の「○○先生」として尊敬されていたのではないかと理解するのは、もう少し経ってからだった。
人気のある普及員は、午前中に現地巡回指導、昼休みの講習会、午後の講習会、夕方の講習会をこなし、そのまま反省会というような日課が日常だった。内勤(所内で勤務。オファーが少ない場合もある)の普及員は、新採(新規採用)の私に普及のイロハを教えてくれた。
野菜専門の普及員となることが既に決定していた私のトレーナーは、M先輩であった。M先輩は温厚な人柄で、現地に移動する車中で普及事業を説明してくれた。
**********
普及事業は協同農業普及事業であって、国と都道府県が協同で実施することから「協同」という字をあて、国が負担金として都道府県に交付していること。
普及事業は昭和23年に制定された農業改良助長法に基づいているが、この法律は農家が自立するまでの時限立法のような性格なのだということ(※)。
農協の営農指導は根拠となる法律が違うが、農家の視点で見れば明確な違いはないこと。
両者の違いは、現時点では役割分担というより、住み分けの方が理解しやすいこと。
農業改良助長法には蚕糸業の除外規定(その後改正)があり、指導業務は別の法律に基づき、蚕業指導所には蚕業指導員を、農協には業務委託として蚕業普及員を置いていること。
**********
※ 関連条文はその後改正
新採職員の私は、農家からの問い合わせの電話にとまどっていた。同じ山形弁ではあるが、地域により微妙に異なっており、農家の問い合わせを正確に聴き取るのが難しかった。何よりも、回答するのが難しかったというべきかも知れない。
中途半端に答えないようにと、M先輩から厳しく指導されていたが、それでも、ひと月もすると、受け答えがスムーズになってくるのを実感するようになった。3カ月もすると、一人前に見えるようになる場合が多いと先輩が話していたが、それは、まだ半人前以前の段階との意味でもあった。
当時、新採の普及員は3年計画で人材育成するというのが県の方針だった。
現在の普及指導員は、資格を取る前の技師の段階から即戦力として期待されているようで、ちょっと心配になる。
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。