MENU
2025年
2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
2019年
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年
2007年
2018年8月 3日
たらの芽の巻(その1)
「ときどき(時々)」普及の職場に勤務しました。
「どきどき(ドキドキ)」するぐらい、楽しい(?)普及を経験させてもらいました。
また、「とき(時)」には、地域振興を真剣に考えたりしました。
山菜などをネタに、コラムを執筆していきたいと思います。
***
山菜と向き合ったのは昭和60年だった。それまでは山形県園芸試験場に勤務し、イチゴやメロンの研究開発を行っていた。苦労しながらも充実した毎日を送っていたある年の人事異動は、突然やって来た。4月の異動先は農業改良普及所(現 農業技術普及課)だった。着任先の所長の希望による異動だったらしく、担当業務は農地開発の営農だった。
前任者からは、「開発する農地では山菜の栽培がおもしろいと思っているが、技術的には確固たるものは何もないので、よろしく」と、引継ぎを受けた記憶がある。
当時、管内で「たらの芽」を栽培している農業者は数名の状態だった。その農業者たちとの出会いが、自分自身の技術者としてのキャリア形成の転機になろうとは、考えてもいなかった。ほどなく、技術開発(普及的には組み立て、実証)に没頭することになった。
「阿部さん、自分の圃場やハウスは遠慮なく使ってかまわないよ」
「本当ですか? お言葉に甘えて、実証をやらせていただきます」
農業者と一緒にやる技術開発の楽しいこと。これは、開発と農業者への技術移転が同時だからである。また、これまで誰もやっていない技術開発ということもあった。
「阿部君、楽しそうだね。なにか手伝うことがあったら、遠慮なく言ってくれる?」
「課長、ありがとうございます。それでは、お願いしたいことがあります」
課長は忙しかったはずだが、一緒に調査を行いながら、調査手法はオリジナルで組み立てる必要があること、駒木、穂木などの部位の名称を新たに決めたこと、この技術の組み立てが完成したら、豪雪地域の冬場の農業にとってインパクトがある普及ができることなどを説明した記憶がある。
技術開発(株養成技術、促成技術)は、順調に体系化が進み、管内のたらの芽産地は、瞬く間に1億円を越える産地に急成長することになった。時代はバブル経済に入りつつあり、少量多品目、珍しいものなどが飛ぶように出回っていたこともある。農林水産省の研修館では、流通研修が花盛りだった。受講した「農業生産から流通が始まっている」との講話は、今風に言うとマーケットインであろうか。
そういえば、かつて受験した専門技術員資格試験の課題(ウ)は、たらの芽の産地育成をネタにした小論文だった。
平成元年1月の2次試験では、「面接官は、たらの芽なんてほとんど知らないだろうな」と思いながら、靖国神社近くの農林水産省別館(米価交渉でよく報道された、円卓テーブルのある建物)に出かけたものだった。「まだ1億円少々しか販売額がありませんが、農業者とともに、データに基づいて不足する技術を組み立てました」などと、著名な面接官に対して、恥ずかしいことを平然と答えた記憶がある。
その後、普及所管内では、ニラ、アスパラガスやキュウリなどが主産地に成長することになるが、同様な普及手法で取り組んだことなど、当時は、認識さえしていなかった。(つづく)
昭和30年山形県金山町の農山村生まれ、同地域育ちで在住。昭和53年山形県入庁、最上総合支庁長、農林水産部技術戦略監、同生産技術課長等を歴任。普及員や研究員として野菜、山菜、花きの産地育成と研究開発の他、米政策や農業、内水面、林業振興業務等の行政に従事。平成28年3月退職。公益財団法人やまがた農業支援センター副理事長(平成28年4月~令和5年3月)、泉田川土地改良区理事長(平成31年4月~現在)。主な著書に「クサソテツ」、「野ブキ・フキノトウ」(ともに農文協)等。