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きょうも田畑でムシ話【127】

2023年10月10日

ウジ虫――軽んじられる分解者  

プチ生物研究家 谷本雄治   


 栗をいただいた。
 それならというので、残っていたもち米を使って、久々の栗ご飯にした。ほぼ1年前、小豆の原種とされるヤブツルアズキで赤飯をつくった際に残したものだ。なんとか食べられる栗ご飯になり、家族には喜ばれた。
「もう栗のシーズンなんだよなあ」
 そう思って散歩道を行くと、散り始めた葉が増えてきたことに気づく。暑い、暑すぎるとぼやいていた夏がようやく、秋にバトンを渡す気になったようだ。


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左 :ヤブツルアズキの実。小豆の原種だとみられている
右 :ヤブツルアズキの豆でつくった赤飯。色は薄いが、小豆によく似ている


 その時期になったから落葉するというのは、自然の摂理といえばその通りなのだろう。だが、木々が落とす葉は毎年、かなりの量になる。樹体を守るために自然落下するものがあれば、こぼれるタネ 、実を食べた鳥や獣が落とすふんだってある。
 そんなあれこれが地上に積もれば、大地はそれらで埋め尽くされてしまうだろう。
 それなのに、現実にはそうならない。野外には多様な分解者となる生き物がいて、人知れずせっせと土にかえしてくれる。
 なんともありがたい。
 そんなふうにちらっと感謝することはあっても、たいていはすぐに忘れるし、その存在を意識することなく、のんびりと生活している。だからたまには偉大な働きについて考える時間が必要でっせというわけで、秋が来る。そんなふうに考えてもいい。


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左 :公園の木も葉を落とし始めた。たくさん積もるが、落ち葉は自然界の分解者が片づけてくれる
右 :ヤマボウシの実。熟すと、ぼとぼとと地上に落ちる。食べると甘い木の実のひとつだ

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左 :カジノキの実。和紙や縄の材料になる木で、同類のコウゾの実を大きくしたような実になって、落下する
右 :トチノキの実。栗のような立派なタネができるが、食べるまでの処理は面倒だ


 落ち葉が積もる足元に目を向けてまず出会うのは、ダンゴムシだ。体を丸める習性から「マルムシ」とも呼ばれるおなじみのムシだが、落ち葉を食べて排せつするのはなんと、四角いふんである。丸い体なのに丸いふんとならないことにツッコミを入れたくなるが、「ふんっ!」と一蹴されそうなので、やめておこう。


 それはさておき、ダンゴムシのふんをえさにして生きる菌類がいる。その活躍によって落ち葉はさらに細かく、ぼろぼろになり、その残がいもいつか消滅する。
「ふんを体外へ押しだして終わりにしないなんて、自然の力ってすごいんだなあ」
 と感心するのは、悪くない。だが、それくらいなら、多くの生き物がそうしている。ムシや動物たちが不要とする排せつ物もまた、ほかの何かが生きる糧になる。

 ダンゴムシのふんで驚くのは、かびを防ぐ特殊な細菌を含むことだ。しかもその事実を見いだしたのは、小学生のときから自由研究でダンゴムシと付き合ってきた高校生だった。
 そんなことまで知ると、おしりから出た四角いウンチを見てつまらぬことを口にする自分が恥ずかしくなる。


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左 :朽ち木の下に隠れていたダンゴムシ集団。森の分解者として大活躍する
右 :ダンゴムシのふん。四角いだけでも不思議だが、かびを防ぐ細菌も含んでいるという


 落ち葉をかき分けると姿を現す大物といえば、ミミズを忘れてはならない。見栄えのしない地味な生き物なのに偉大な働きだけはよく知られていて、「地球の虫」とたたえられてきた。
 ミミズたちは腐りかけの落ち葉をバキュームホースよろしく飲み込み、ほかの生き物が利用しやすい形にして体外に出す。それを一般にウンチとかふんとか呼んで肥料と認識するが、実際にはふんだけでなく、ミミズの活動そのものがほかの生き物の生活を支えている。
 たとえば地中を動きまわることでできるトンネルは、小さなトビムシやササラダニのすみかになる。水や肥料をためる場所になる。そんなふうにして、なにかと自然界の役に立っているのだ。

 そうした仕組みに思いをはせつつ、たい積した落ち葉をほじくる。
 すると、腐葉土をごちそうと認識して食するカブトムシの幼虫が顔を出す。かれらの摂食行動もまた、自然界の分解者たり得る尊い行いだ。
 その両親はと周囲に目をやれば、あしを縮め、空を見上げてひっくり返っている。生あるものいつかは寿命が尽き、あちらの世界に旅立つのは仕方がない。それがヒトだと世の無常を感じるが、虫にはあまり感じないのがフツーの人間のような気がする。


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左 :ふんを地上に出している最中のミミズ。休まず働く有能な分解者である
右 :腐葉土にもぐっていたカブトムシの幼虫たち。彼らもまた、森の分解者として働く


 先日もまた、1匹から1個体となったノコギリクワガタの亡きがらを見つけ、いつものように持ち帰った。「この角、いつ見てもカッコいいよなあ」なーんて思いながら......。
 そこまではよくあることだ。だから驚くこともないのだが、異変は次の日に起きた。
「おや、何だろう?」
 野外の拾得物は、小さな容器やビニール袋に入れるのが習慣になっている。そのノコギリクワガタも容器に入れてふたをし、机の端に置いていた。
 何だろうと思ったものをよく見れば、できれば見たくなかったウジ虫だ。


tanimoto127_9-2.jpg 思い起こせば数年前、寿命が尽きて昇天したノコギリクワガタを標本にしようとした。あしの形を整え、容器に入れて乾かしていた。するとしばらくして、明らかにハエのさなぎと思われる物体がいくつも容器の底に転がっているのに気がついたのだ。
 さなぎがあるということは、その前段階として幼虫であるウジ虫がうじゃうじゃとうごめいていたことになる。まさに、あわわ状態なのだが、そのとき目にしなかっただけ幸せではある。
 そんな経験もしているのだが、まさか地面に転がっていたノコギリクワガタの死がいにもそうしたオマケが付いていたとは知る由もない。
「ふたをしていて良かったなあ」
 写真を撮る気にもならず、かといって捨てる気持ちもなく、さなぎになるのを待つことにした。
右 :以前飼っていたノコギリクワガタもハエに寄生されていた。もっとも、気づいたときには十数個のぬけがらだった


 と、その翌日、ウジ虫は消えていた。ということは再び、体内にもぐり込んだということだ。
 ところがどっこい、さらにその翌日になると、今度は仲間を引き連れて体外へとお出ましになり、容器内を徘徊した。壁といわず天井といわず、行きたい放題、歩きたい放題である。「まいったなあ」という言葉しか出ない。
 考えてみれば、ハエの幼虫であるウジ虫も自然界の分解者のひとつなのだ。
 したがって感謝しなければならない存在なのだが、ダンゴムシやミミズほどには注目されない。有能な分解者だから差別してはいけないのだが、なにしろあの見てくれ、動き方だ。凡人にはそれがなかなか、受け入れがたい。


tanimoto127_10.jpg 農業分野では、ミツバチやマルハナバチに代わる訪花昆虫としてハエに目を向けている。残飯処理に利用しようとしている。それなのに、これは役に立つ良いヤツ、これは見栄えが悪いからダメな虫といった色眼鏡で見るのは良くない。
 ハエの名前さえわからないが、ノコギリクワガタの亡きがらを手にしたことで自然の摂理をまたひとつ学ぶことができたことは確かだろう。
 野にあればハエたちはもっと落ち着いて、食事をしたかもしれない。そのあとの分解も順調で、かたい外骨格もそのうち土にかえったことだろう。そう考えると、いつもお世話になっている自然世界の住民たちに申し訳ないことをしたことになる。
 秋はちょっぴり、思索へと心を向けさせる。そして静かに、深まっていく。
上 :野菜類の授粉用にハエが販売される時代。ハエの働きにももっと目を向けたいね

たにもと ゆうじ

プチ生物研究家・作家。 週末になると田畑や雑木林の周辺に出没し、てのひらサイズのムシたちとの対話を試みている。主な著書に『週末ナチュラリストのすすめ』『ご近所のムシがおもしろい!』など。自由研究もどきの飼育・観察をもとにした、児童向け作品も多い。

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