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2019年7月10日
泡を吹くのはどっち?――アワフキムシ
「早く来て! 羽化が始まったよ」
梅雨の合間のある日の夕方、リビングから家族の呼ぶ声が聞こえてきた。
わが家ではぼくが知らないうちに虫が持ち込まれ、気がつくとぼくがいつの間にか飼育担当にされていることが多い。といってもチョウやバッタなど、庭や家のまわりでだれかが捕まえたものがほとんどだ。
話題の主がわからないまま、駆けつけた。
すると、タッパーウェアの中につる草があり、そこに何やらちっこい虫がへばりついていた。
「アワフキムシ。いま、脱ぎだしたところ」
――そういえば、アワフキムシの本はないかと尋ねられたっけ。
何日か前、いい加減に聞いていたことを思い出した。
右 :アワフキムシの羽化シーン
アワフキムシは面白い虫だ。
といっても、地味系ではある。幼虫が、自分のおしっこと体から出す特殊な成分を空気と混ぜ合わせて泡をつくる。それで「泡吹き虫」の名をもらった。
専門家によると、アンモニアと脂肪酸を反応させてつくった泡に繊維状タンパク質を加えて丈夫なものにしているのだとか。
そのおかげで壊れにくく、雨風や乾燥にも耐えられる。それでいて中にいる幼虫が窒息しないのは、ちゃんと空気が通っているからだという。
そんなにすばらしい構造ならまねてみたいと考えるのは、科学に頼らないと何もできない人間らしい思いつきだ。少量の水でつくる温かい泡と空気で、新発想の入浴システムが生まれる時代になっている。
こうなると、ちっぽけなアワフキムシに対する見方も変わるというものだ。季節の変化をあらわす七十二候で「腐草為蛍」と表現したり、泡の中にいるのはホタルの幼虫だと考えたりした昔の人たちのことは笑えない。
左 :アワフキムシの泡を見て新たな入浴システムに結びつけるなんて、人間もなかなかスゴい生きものだ
右 :ヘイケボタルの成虫。むかしの人は、幼虫時代のホタルは泡の中で過ごすと考えた。その泡の主はアワフキムシだと知る由もなかったのだ
もっとも、西欧となるとまた異なる見方があり、「カッコウのつば」が通り名となっている。アワフキムシの習性をあらわすネーミングに関しては、どうやら海外組に軍配が上がりそうだ。
といいながらぼくはずっと、カッコウ説は日本人の感性が生み出した傑作だと思っていた。念のために調べてみたら、あのファーブル先生も南フランスではそのように呼ぶと記していた。
いまの日本でホタル幼虫説を持ち出したら、一笑に付されるだけである。それがカッコウなら、話はちがってくる。カッコウを見たことがある人は少ないが、そういう鳥が存在することはよく知られるから、ほほう、となるのだ。
げに恐ろしい(?)虫が、いままさに最終段階の脱皮をしようとしている。
彼か彼女か識別する能力がないため性別は不明だが、仮に彼としよう。その彼はヘクソカズラのつるに寄生し、その細いつるから甘い汁を吸っていたようである。
あの悪臭で名を売る植物である。実際に甘いと感じていたのかどうかは知らない。だがそれもこの際、どうでもいい。確かなのは、つるの一部に、幼虫時代にこしらえたとおぼしき「カッコウのつば」があったことである。
幼虫はその泡から出てきて、羽化に及ぼうとしているらしい。
「はよう羽化せいや」と誘いだしたり、引っ張りだしたわけではない。勝手に這いだしてきたというのが家族の証言である。
写真絵本でもそのように紹介されていた記憶はあるものの、はっきりしない。
これもこの機会にと思って読み直すと、なるほど、泡から出てきて羽化するとあった。子ども向けの本は、明解でいい。こうした疑問を解くのにぴったりだ。
右 :羽化が始まる前の泡の中にいたのは、こんな「ルビーのような幼虫だった」と聞いたのだが......
そうこうするうちにも、羽化は進む。背中が割れたと思ったら黄みがかった成虫の体が見えてきて、休み休みではあるが、着実に衣を脱いでいく。
――まさしくセミだな。
そう言ってしまうと身もふたもこの幼虫の立場もないが、アワフキムシはセミやカメムシの親せき筋に当たる。
その証拠に針のような口器を有し、植物の汁を吸う。沖縄にはイワサキクサゼミという体長2センチに満たない小さなセミがいるが、イメージ的にはそのセミに似ているような気がする。
アブラゼミの羽化なら、何度も見た。よく知られるように、成虫は地味な茶色のはねを持つ。
ところが羽化したばかりの新米ゼミは、ヒスイのような美しさを見せつけるのだ。蛍石のようでもあり、できればそのままの状態でいてほしいといつも願う。
左 :アワフキムシはやはり、セミのご親せき。幼虫はいとこ似(?)だ
右 :草の上で鳴くイワサキクサゼミ。アワフキムシの親分といえば、信じる人がいそうである
羽化したてのアワフキムシは、黄みがかっていた。それが時間とともに、茶色になっていく。
わが家にとどまっていたのは、おそらくシロオビアワフキだろう。アワフキムシという名前はわかりやすくていいが、シラサギやキツツキと同じで、アワフキムシというそのまんまの名前の付いた種はいない。
でもまあ、多くの人にとっては、正確な名前などどうでもいいことだ。泡をつくってその中に身を隠す虫がいて、泡を吹き飛ばすと中にいる幼虫が泡を食った様子を見せてくれることが重要なのである。
羽化は結局、30分ほどで一応の完結をみた。小さいせいか、セミほどの感激は得られなかったものの、小さいことは利点でもあると思い知った。
手ごろな容器があれば、羽化の観察はたやすい。コンパクトな観察昆虫として、もっと活用されていい虫だ。
左 :泡を吹き飛ばすと、アワフキムシの幼虫は慌てたように泡をつくる。かわいいね
右 :装いがほぼ整ったアワフキムシ。わが家に滞在していたのはシロオビアワフキのようである
考えてみれば、アワフキムシとはおかしな命名である。
泡を吹くという表現が成り立つためには、くちが要る。だが、この虫のくちは針状なので、吹くことは難しい。人間ならストローを使ってしゃぼん玉遊びもできるが、昆虫には難しかろう。
カニなら、くちから泡を吹くことは可能だ。まさにぶくぶくと、泡を出す。えら呼吸をするカニのあの泡は、少ない水分を有効利用するためだといわれるが、アワフキムシよりは「吹く」に近い行動だ。
アワフキムシが泡をこしらえるために使うのは、くちではなく、おしりなのだ。言ってみれば、排尿によってなし得ることなのである。ポンプのように、空気を吸ったり出したりできるため、ああした泡ができる。
幼虫時代も、脱皮のたびに泡から抜け出し、新しい体になるとまた泡をこしらえる。それを羽化の時期がくるまで繰り返す。
セミやカメムシの親せきということになれば、農業との摩擦が起きてもおかしくはない。緑化木や果樹の一部ではいくらか被害があるようだが、ウンカやヨコバイのように、目のかたきにする話はまず聞かない。
同類にもかかわらず敵視されないのは、この虫の徳なのか。そうとでも考えなければ、それこそ泡を吹いて逃げだしかねない。
京都の愛宕山には親鸞や法然、空也にゆかりのある月輪寺があり、雨も降っていないのに不思議なしずくを散らす「時雨の桜」が植わっている。
いわく、法然上人との別れを惜しんだ親鸞聖人が、その桜の木を通して涙しているのだとか。
その奇跡をもたらす原因とされるのがアワフキムシ説だ。クロスジホソアワフキの幼虫のおしっこを雨と勘違いしてのものだといわれる......といった話があるとは聞いているが、この目で確かめてはいない。ぜひ一度、見てみたいものだ。
それとも山形から持ってきたわが家の啓翁桜にアワフキムシを寄生させて......。
だけど、しずくならともかく、バチが当たるのはいやだなあ。
右 :アワフキムシの泡から垂れるしずく。このポツンポツンがたくさんあれば、たしかに不思議な感じがするだろうね
プチ生物研究家・作家。 週末になると田畑や雑木林の周辺に出没し、てのひらサイズのムシたちとの対話を試みている。主な著書に『週末ナチュラリストのすすめ』『ご近所のムシがおもしろい!』など。自由研究もどきの飼育・観察をもとにした、児童向け作品も多い。