MENU
2025年
2024年
2023年
2022年
2021年
2020年
2019年
2018年
2017年
2016年
2015年
2014年
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年
2007年
2017年4月10日
隠遁生活がやめられない?――トタテグモ
灯台下暗しとは、こういうことを言うのだろうか。
求め求めてン十年、よほど恵まれた場所に出あわなければ見られないだろうと、あきらめかけていた。それがなんと、わが家の玄関先で見つかったのである。
見つかったのはクモだ。そう、たぶん多くの人々に嫌われているあのクモである。
かつてのナナフシがそうだった。若かりしころ読んだ本に載っていた虫をいつか自分の目で、野外で探し出したいと願い続けた。それが現実になるまでになんと、30年の歳月を費やしている。
その悪夢、いやいや幸運というべきかもしれない僥倖(ぎょうこう)に再び恵まれたのだ。
いやあ、良かった。
うれしいなあ。
クモが嫌われるのは、あのうっとうしい網のせいであることが多い。
顔にべっちょり張りついたら、だれだっていやだ。
むかしの子どもたちはあの網でセミやバッタを捕ったものだと話しても、よほどの酔狂でもないと乗ってこない。ましてやうっかりして口にでも入ったりした日には、もう何も言えない。右手、左手、両手を動員して網外しに全精力を傾けるにちがいない。
左 :ふつうにイメージするのはこんなのが「クモの巣」。正しくは「網」と呼ぶべきものであるが、確かにうっとうしい
右 :クモの網にかかったセミ。これだけの大物が捕れるのだから、虫とり網の代わりにしたのもうなずける
ちょっとばかりクモのことを知っている人なら、そうした被害をもたらすのは、クモ全体からみれば半数にすぎないことを理解していよう。だからたとえ化粧したばかりのつるつるピカピカの顔を覆われたとしてもあわてず怒らず、いつもと変わりない笑顔を振りまいている......なんてことは、まずあり得ない。頭で理解していても、現実にふりかかった災難となれば自ずと対応、反応もちがってくる。
残る半数のクモにとっては、迷惑な話である。いくら同胞のしでかした不始末とはいえ、自分たちまで巻き込んでもらいたくないと思っていよう。ぼくがようやく出あったのは、そうした「網張らない族」のクモだった。
名を、トタテグモという。「ト」が戸を意味するといえば想像はつくだろうが、そうでない方々のために言い添えるなら、マンホールのような自前のふたを有したクモであるということだ。
地面の下に穴を掘り、その壁を糸でしっかり裏打ちし、マイホームの仕上げとしてやはり糸でこしらえたドアを付ける。なかなかに芸の細かいことをするクモなのである。
一般にはおそらく、土の中で暮らすモグラもどきのクモの存在を認めていない。クモたるもの、木と木の間に糸を張りわたし、ぐるぐるぐるりんと幾度も回転し、見たものの目が回るような立派な網をば張ってほしいものよのう、と懇願すべきものが正しいクモの姿だと思っている。
だからして、ごくごくわずかの人間が望むからといって、そうやすやすと出現してほしくないというのが正直な気持ちであろう。半分は網張りをさぼり、ただただそこらへんを徘徊するクモだとしても、そこにさらに例外的なクモなど登場させてほしくないはずである。
右 :タテグモの巣には、立派なドアがある。実に手(あしかな?)のこんだ仕事だなあ
トタテグモはそこに、現れた。
いや、この表現は正しくない。
なぜなら、すでに紹介したように、土の中で生活する。ちょっと見には、何がいるのかあるのか、はっきりしない。
ところが、である。クモの歴史をひもとけば、穴倉生活をするクモこそ歴史的には古い、由緒ある出自なのである。
それはうーんと前の昔ばなしであり、種としては同じであっても、現代っ子のトタテグモはそんなこと知ったこっちゃないと思っているかもしれない。
左 :トタテグモを誘い出した(ちょっと強引だったけれど)。なかなかにカッコいいではないか
クモは糸を出す。しかも多くは、口ではなく、おしりからピュピュッと出して歩き、網を張り、獲物をからめとる。よく知られるように、横糸は粘球を持つ粘っこい糸でつくられ、縦糸はさらさらしたものでできている。しかし実際には5種類も6種類もの性質の異なる糸を出すことができる生き物である。
カウボーイのロープのように糸を振り回し、獲物を狩るものもいる。ムツトゲイセキグモやマメイタイセキグモがそうした能力の持ち主だということは知っているが、残念ながら、まだお目にかかっていない。どこでそんな技を覚えたのか、たずねてみたい気がする。
左 :おしりから糸を出すクモが圧倒的に多いが、糸が1種類であることは少ないようだ
右 :網にかかったツチイナゴをぐるぐる巻きにするナガコガネグモ。こんな場面を見せられたら、ますますクモ嫌いがふえるだろうね
左 :クモの白帯(隠れ帯)。最近は、紫外線光を反射させて獲物をおびき寄せるようだという説が有力だ
右 :クモの親子。というのか、まどいのそばに親グモらしきクモがいた。どんな会話をするのだろうね
投げ縄はスゴいが、そこまでいかなくても、クモの多くはエコな生活を送っている。それだけでもすごい。エコもエコ、せっかく苦労して張ったであろう網をパクパクと食べ、タンパク源として再び利用するのだ。その節約魂、フーテンの寅さんならずとも、風呂屋の煙突と同じように、見上げたもんだとほめてやりたい。
よく見かけるゴミグモの網だって、考えてみればよくできている。人間をだますためにそうしているわけでもあるまいが、その網の主がどこにいるのか、ちょっと見ただけではわからないからである。
名前の通り、ゴミ、ゴミ、ゴミ。ゴミ屋敷なんて呼ばれるところがニュースになったりするが、人間の彼らはそれをどうするのか、いまひとつよくわからない。
ゴミグモのねらいは、はっきりしている。自分の食いぶちぐらい自分でなんとかしようと、そのために凝らした工夫なのだ。
右 :ゴミグモのこしらえた網にテントウムシがひっかかった。だが、肝心のクモはいずこ? 注意しないと目に入らない
しかしながらトタテグモは、そうした華々しいクモ技とは縁がない。マンホール暮らしだから、余分な糸使いの必要がないのかもしれない。
その分、暗いところでじーっと獲物が近づくのを待つのである。
人生、辛抱が肝心。
なんて、どなたかおっしゃってませんでしたっけ。
念のためと思って知り合いの研究者に聞いてみたら、「きっと、1、2種類の糸しか出せないんだろうね。巣を補強したり卵のうを保護したりするくらいの糸じゃないかなあ」だって。クモといっても進化の初期のころの状態を保っているわけだから、そういうこともあるのだろうね。
それにしてもトタテグモのくらしは、隠遁生活そのものではないか。
うらやましいねえ。
俗世間を離れて自らの手(実際はあしだけど)でこしらえた住まい、しかもおそらくは最小限の住居でよしとし、ぜいたくを言わない。モグラなんて、あっちをほじくり、こっちを掘り起こしては地面の上にほれ見ろ、ほら見よとばかりの塚をこしらえている。しかもその範囲は広大だ。それに引き替え、トタテグモさんのつつましいことよ。
あんたら、えらいねえ。
そんなふうに、ほめてやりたくもなるではないか。
そんなにもすばらしいクモさんがなんと、拙宅の玄関の片隅に隠れておられた。あらためて見てみると、巣の残がいと思われるものが周囲からいくつも見つかった。うれしいことだ。
左 :まさに灯台下暗し。こんなにも身近にトタテグモの巣があったなんて......うれしくなる!
右 :玄関のトタテグモの巣。マンホールのふたさながらの、ちゃんとしたドアがついているのがわかる
しかし!
それは形の崩れたものであるから、もしかして......ぼくが壊してしまった巣であるかもしれない。完全なマンホール状のふたが残る巣は、たったのひとつだ。
加害者かもしれないという気持ちもあって、美しく鎮座するふたの前に、ダンゴムシやらワラジムシを数匹、差し出した。でも、その家の主はなんの反応も見せてくれない。
もしかして空き家?
心配でしかたがないが、確かめるためにほじくって、家を壊しでもしたら、またまた迷惑をおかけすることになる。
隠遁生活をされている方に問うこと自体、申し訳なく思う。
どうしようかなあ、と迷う日が続いている。
プチ生物研究家・作家。 週末になると田畑や雑木林の周辺に出没し、てのひらサイズのムシたちとの対話を試みている。主な著書に『週末ナチュラリストのすすめ』『ご近所のムシがおもしろい!』など。自由研究もどきの飼育・観察をもとにした、児童向け作品も多い。