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2016年3月 9日
水辺の貴公子――シュレーゲルアオガエル
以前はときどき、川釣りに出かけた。魚釣りは「フナに始まり、フナに終わる」といわれるが、ぼくの釣りはその始まりだけにとどまり、フナから大きく変化することはなかった。
「ヘラブナ」と呼んでいたゲンゴロウブナがおもな相手だ。トータルでみればおそらく、フナに負けている。これだけの大物を釣ったぞ、と自慢できる釣果を上げたことはないからである。
釣れるのはたいてい、小物ばかり。それをどうするかというと、一緒に出掛けた友人に譲るか、スズムシなど鳴く虫のえさにするかのどちらかだった。
魚は釣っても、食べるのは好きじゃない。魚肉より、牛肉、豚肉の方がずっと好みだ。歳とともにいくらか健康を意識して魚を食べるようになったが、フナやコイはいまも、わざわざ食べる気になれない。
左 :ぼくの釣り相手は、いつまでたってもフナだけだった
同じ川でも、渓流となると話はちがってくる。アユやイワナ、ヤマメは大好きだ。それになにより、渓流という環境がいい。そんなところなら魚が釣れなくたって、いっこうに気にならない。そこらの樹木や草をながめたり、そこにすむ虫を見ていたりすれば時間なんてどんどん過ぎていく。
――ああ、渓流に行きたいなあ。
と思っても、すぐには叶わない。ぼくにとっての身近な水辺は、田んぼであるからだ。
暦の上で春ともなれば、とりあえずは田んぼに足を運んでアカガエルの産卵を見る。そしてついでに、トウキョウサンショウウオの卵のうも探す。そのうちヒキガエルの産卵時期になり、ゼリーでこしらえたような長い長い卵のつながりを見ては、「ことしも正しい春がやってきたよなあ」とほくそ笑む。
右 :ゼリー状の長いひものような卵を産むヒキガエル。オスはメスの上に乗り、体をがっしりつかんでいる
そしてまた同じころ、同じような田んぼで出会うのを楽しみにしているのがシュレーゲルアオガエルだ。
シュレーゲル? どう考えても和風の命名ではない。どこかの音楽家の名前のようにも思えるが、そうではない。オランダのライデン王立自然史博物館の2代目館長だったヘルマン・シュレーゲルにちなんだものだという。
シュレーゲルさんは、フィリップ・フォン・シーボルトの『ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)』の編さんにもかかわったドイツ生まれの鳥類・動物学者だ。シーボルトというのは、シーボルト事件や鳴滝塾で日本史にも名を刻んだ、あのシーボルトだ。「オランダおいね」として親しまれるわが国初の女性産科医・楠本イネのおとっつぁんでもある。
そんなシーボルトに比べると知名度は低いが、カエルの世界ではかくも有名人である。固有のカエルに自分の名を残すなんて、そうそうできることではない。シュレーゲルアオガエルの学名を日本風に記せばシュレーゲルさんのアオガエル」であり、アマガエルやアカガエル、ヒキガエルという名前よりは高尚な感じすら受ける。
「アンタに言われなくたって、この名前から想像できるのはそれくらいのことだろ」
そんなお叱りを受けたことがある。
ごもっとも。そりゃそうだ。シュレーゲルというのが人名だろうなということは容易に察しがつくし、その後ろにアオガエルとあれば、ほかの言い訳を考える方がずっと難しい。
なーんてことを思いながら、春ともなればシュレーゲルさんゆかりのこのカエルを見に行くのも楽しみにしている。
何がうれしくて、わざわざ出かけるのか。
などと考えたこともない。強いて言えばあの泡状の卵のうと、カスタネットをたたくような鳴き声にひかれて田んぼを訪ねるのだと思う。
左 :しばらく飼っていたシュレーゲルアオガエル。とぼけた感じが好きだった
ヘラブナとたわむれていたにきび面の青年時代には、こんなカエルがいることさえ知らなかった。田んぼで見るのはトノサマガエルであり、たまにウシガエルの「ぶおー、ぶおー」という野太い声を耳にする程度だった。そしてトノサマガエルはあわれにも、アメリカザリガニを釣るためのえさになる運命にあった。
左 :子ども時代はよく目にしたトノサマガエル。アメリカザリガニを釣るためのえさとしてだけどね
右 :子どもたちが遊び相手にしていたアメリカザリガニ
歴史をひもとけば、食用にするために持ち込んだウシガエルのえさにしようと導入したのがアメリカザリガニだ。しかしぼくらの手に入るもっとも手ごろなカエルはトノサマガエルであり、そこには殿様の威厳はなかった。なにしろ悪ガキにあっさりと捕まえらえてしまうのだから、何も言えまい。あわれな殿様は皮をひっぺがされ、地面に打ちつけられて昇天し、しかるのちアメリカザリガニの餌食にされた。
いまにして思うと残酷な話だが、そのころは何の疑問も抱くことなく、いたずらを繰り返していたものである。そのころのトノサマガエルに会えたら、わびたい気持ちにはなっている。せめて冥福を祈ろう。
というわけで、シュレーゲルアオガエルの存在すら知らなかった元少年は、泡とカスタネットを求めて田んぼを歩く。
「聞きなし」がある程度認知されている鳥たちに比べると、カエルの鳴き声を文字にするのは数段難しい。ましてや音痴を自認するぼくにとっては至難の業であるのだが、それでもあえて記すとしたらコココココ......であろうか。
「そのどこがカスタネットやねん」とすぐさまツッコミが入りそうだが、現地で聞くシュレーゲルさんのアオガエルはたしかにそんな風に鳴いて、「ほれほれ、カスタネットの音に似とるだろ」などと語りかける。だからぼくの頭の中にはカスタネットという打楽器しか現れないのである。
鳴き声のする方に歩を進める。と、すぐに途絶える。
しばらく待つと再び鳴きだすので、こんどこそと歩むと、またシーン! この繰り返しである。
だからよほど運が良くないと、拝謁できない。
右 :ヨシにしがみつくシュレーゲルアオガエル。ヤナギに飛びつくカエルより優雅かな?
その代わりといってはちとさびしいのだが、田んぼのあちこちに産んだ卵のうなら、たやすく見つかる。
なにしろ、泡なのだ。見たことがなくても、とりあえずは綿菓子、あるいは綿あめを連想していただけばいい。
その際、綿菓子と綿あめの違いを気にしてはいけない。そうなると思考がぶっ飛んで、シュレーゲルさんのことまで忘れてしまうからである。綿菓子と綿あめの呼び名の違いは地域による違い程度でしかないらしいが、同じようなグリーンカラーであっても、シュレーゲルアオガエルとアマガエルの差は大きい。
左 :いつも行く田んぼで見つけたシュレーゲルアオガエルの卵のう
右 :卵のうの中にふ化したての幼生が見える
左 :葉上のシュレーゲルアオガエル。何を考えているのだろう
右 :アアマガエル。鼻先がつぶれたような姿だが、慣れないとシュレーゲルアオガエルと見間違える
芥川龍之介の句に「青蛙おのれもペンキぬりたてか」というのがある。
この「青蛙」を、動植物名は片仮名表記とするという慣例に従うと、「アオガエル」となるが、シュレーゲルアオガエルやモリアオガエルではないだろう。青っぽいカエル、つまり緑色に見えるカエルを指すとみていい。となるとアマガエルぐらいが手ごろではないかと思うのだが、それはさておき、気になるのが「おのれも」の「も」である。
「も」ということは、何かと比べた際の表現だ。
なんじゃらほい、と気になる。
左 :モリアオガエルの卵のう。木の枝に産むところがシュレーゲルアオガエルとのちがいだ
右 :仲の良いシュレーゲルアオガエルの親子。ではなく、産卵前のカップルだ
調べてみたらなんと、ルナールの『博物誌』に登場する「青とかげ」に対抗したものだと、芥川本人が語ったらしい。
『博物誌』にはこうある。
《青とかげ――ペンキ塗りたてご用心》
なるほどね。だから、自分の句は「おのれも」とあるわけか。
シュレーゲルさんはもちろん、ご存じなかったはずだ。
だって、芥川が生まれるより前にお亡くなりになっているからね。
それにしてもペンキとは。さすが芥川、いいところに目をつけたものだわい。
プチ生物研究家・作家。 週末になると田畑や雑木林の周辺に出没し、てのひらサイズのムシたちとの対話を試みている。主な著書に『週末ナチュラリストのすすめ』『ご近所のムシがおもしろい!』など。自由研究もどきの飼育・観察をもとにした、児童向け作品も多い。